綿野恵太氏の『映画芸術』「書評」について


綿野恵太氏による『映画芸術』掲載『イメージの進行形』書評への反論

 『映画芸術』最新号(444号)に、綿野恵太氏による拙著『イメージの進行形』(人文書院)の「書評」(廣瀬純氏の『絶望論』との抱き合わせ)が掲載されました。ところが、これが以下に述べるように、一切「書評」の名に値しない、ほとんど支離滅裂の揶揄めいた文章であることがわかりました。
 29日夜に、筆者の綿野氏とTwitter上で数度のやりとりをしましたが、その不誠実な態度に愕然とし、それも踏まえて、30日に、版元の人文書院を通じて、掲載した『映画芸術』編集部(荒井晴彦編集長)に対し、正式に抗議文を送付しました。
 筆者のあまりにもお粗末な姿勢や、水掛け論になりそうなために、一度は相手にしない方針を取ったのですが、その後、たまたま「いかん。くだらんことにかまけてたら……」云々という筆者のツイートを見かけ、私自身の名誉のためにも、とりあえずの反論を試みることにしました。当該のツイートが、今回の件のことを指すものであるかどうかはわかりませんが、文脈的に充分にそう読み取りうるタイミングで不用意にツイートされていたことを勘案し、そう解釈したものです。
 なお、『映画芸術』編集部の対応が誠意を欠いたものだった場合、それも別途対応するつもりです。

 では、今回の綿野氏の「書評」が、なぜ「書評」と呼ぶに値しないのかの理由を述べます。
 なお、当該の書評は、繰り返すように、廣瀬氏の『絶望論』との抱き合わせなのですが、ひとまずは拙著に触れた後半部分の記述のみを問題とします。
 ここでは、まず大きく二点の理由を提示します。
 一点目は、今回の「書評」が、薄弱な根拠に基づいた支離滅裂な文章であるからです(内容的なレヴェル・後述)。
 そして、二点目は、その「書評」を記した綿野氏の書評者としての「態度」の問題です(パフォーマティヴなレヴェル)。以下、二点目から具体的に述べます。
 当該の「書評」は後述のように、まったく支離滅裂で、著者に対する揶揄とやっつけ以外の何ものでもない文章だったのですが、事実、そのことを、雑誌発売後の著者とのTwitterでのやりとりの中で、綿野氏自身が認めてしまっています。問題なのはその点です。

「渡邉さんがおっしゃるとおり書評は「対象の書物を輝かせるため」にあるという考えは同感なのですが、『イメージの進行形』に輝かせるところが見つからなかったというのが正直な感想です」
「書評でも書きましたが私自身は「イカサマ」をまったく否定していませんよ。ただ、そこに「輝く」部分がまったくない、と書いてるだけなんです」
「『イメージの進行形』には「輝かせる」部分がなかったというほかありません」

 このように、綿野氏は、拙著について「輝かせるところが見つからなかった」「「輝く」部分が、まったくない」と繰り返し書かれています。
つまり、これは『イメージの進行形』について、綿野氏の内部に積極的に語るべき何ものもなく、「批判」をするにさいしても自分には生産的な「批判」が一切書けないという認識と事実を示しています(そして、実際、彼の「批判」は後述のように、ほぼ無効です)。
当然のことですが、書評をはじめ、あらゆる商業的な文章は、「批判的」な言辞も含めて、何らかの語るべき積極的なものごとがあって、はじめて成立するものだと思います。とりわけ書評は、少なくとも私個人の考えでは、本来は筆者の考えを縷々論じるものではなく(それならば、「批評」を本格的に書けばよい)、まずは、本を読むだろう想定上の読者に向けて、本の内容と要旨、ポイントを「積極的」かつ「生産的」に綴るものでなければなりません。「批評的」な批判が、書評と呼ばれる文章に一切不要だとは、いいませんが、私の考えでは、書評と批評はかなり目的や存在意義、書き方が異なるジャンルです。
 事実、綿野氏もいちおうのところ、そうした「書評」の条件を満たす文章を綴っています。

 「一方で、同じドゥルーズに依拠しつつも『イメージの進行形』は、ニコニコ動画などのソーシャルメディアの登場や映画のデジタル化によって映像環境が変化(革命?)しているという。一人の天才ではなく、ネットユーザー達の「コミュニケーション」が「映画的なもの」を生み出すという「映像圏」という概念が提唱されるが、〇〇年代の濱野智史福嶋亮大の言説に触れた者にとってはむしろ馴染み深いものだ。二〇〇近い内外の文献を参照しつつ、このような最新のネット理論から初期映画まで扱っており、勉強になることも多い」

 この部分が、綿野氏の文章中、唯一の「書評」らしい記述です。後ほどこの部分を指して、鬼の首を取ったように何か言われても面倒なので書いておきますが、以上の記述は、特に拙著の本文を読まなくとも書けるレヴェルの「紹介」であり、今回の私の反論にとっては、ほとんど本質的な意味を持ちえません。拙著が「〇〇年代の濱野智史福嶋亮大の言説に触れた者にとってはむしろ馴染み深いもの」にすぎないのだというコメントは、個々の感想であり、もちろん著者である私はその綿野氏の評を何ら否定しません。
いずれにせよ、話を戻すと、常識的に考えて、生産的な「批判」が書けず、また「勉強になることも多い」というあたりさわりのないコメント以外(あらゆる書物は少なからず「勉強」になります)、特に積極的な評価も思いつかない、つまり、「何も書くことがない/書けない」のならば、まず端的に、綿野氏は、『イメージの進行形』の書評者の要件をほとんど満たす書き手ではなかったはずです。
本来ならば、「申し訳ありませんが、書くことがまったくないので、私には、この本の書評者はふさわしくありません」と言って、書評の依頼を辞するべきでしょう。そして、上記のことを、発表後に著者である人間に語るべきではないでしょう。それが書評をする人間の最低限の倫理というものだと思います。
なぜなら、何も自分の内に積極的に書くべきことがなく、単に否定的な言辞を述べるだけならば、その時点で、それは「書評」や「批判」ではなく、必然的に「揶揄」にならざるをえないからです(そして、後述のごとくそれは内容的にも証明されます)。
それは著者である私への許しがたい「侮辱」です。
無内容(無生産)な「批判」(攻撃)が、「揶揄」や「やっつけ」とみなされるのはごく自然な事態であり、したがって、それは「書評」の名に値しません。そのことに綿野氏は、まったくお気づきにならないので、私はただただ呆れていたのですが、以上のように、綿野氏は今回のご自分の「書評」が、無意味・無内容の文章でしかないことを自分から表明してしまったと結論できます。
……個人的には、すでに、この時点で綿野氏への反論は充分と思われますが、さらに、これに関してもう一点。
 もちろん、「揶揄」めいた書評を書かれるひとも中にはいる。中原昌也氏や山形浩生氏などですね。ただ、当たり前ですが、おそらくは(私の知る限り)まだ特に目立った業績も、単著も共著も受賞歴もない、お若い「新人」と呼ばれるべきだろう綿野氏と彼らでは、立場も実績も、その書く文章が与える効果も、まったく異なるわけです。彼らは、その「罵倒」や「揶揄」が長年のお仕事でひとつの「芸」として確立されているし、それが不特定多数の読書人に周知されている。だから、「揶揄」めいたコメントでも、パフォーマティヴに「生産的」な「批判」たりえているし、「揶揄」された側の著者(たしかに気分は悪いでしょうが)もそれを読む読者も、「書評」されるのに等しいほどの有効な反応を期待できるのだと思います。
かたや、まったくそうではない綿野氏が、中原さんや山形さんのような文章を書くなど、はっきり申し上げれば、およそ二十年は早いと思われます。事実、二〇〇五年から仕事をしている私も、いままでそんな文章は書いた経験はありません。綿野氏の「書評」やご発言には、何かこういった、かなり基本的な段階での勘違いや自己顕示の態度が散見されるように感じます。

 以上が、まず最初の反論点です。
 しかし、いま述べたようなことは、各自の「書評観」の違いとやらも関わってきて、当然、「水掛け論」に陥りそうな可能性がある。
 そこで、今度はいよいよ「書評」の「批判」の内容のほうに目を向けてみます。
ところで、綿野氏は、Twitterで、

「批判を批判として受け入らない、なにも身を呈さない、渡邉さんの態度が、論考全体の「手堅さ」、悪く言えば「臆病さ」の原因なのではないか。そういう意味で、渡邉さんは「批評家」よりも「研究者」だろうと評したわけです」
「そして、この批判を批判として受け取らないご都合主義的態度は、私の批判を「揶揄」としてしか受け取れない今回の渡邉大輔さんの一連のツイートにも共通しています」

と書かれています。
総じて、綿野さんの使う「研究者」という表現の、驚くべき差別的な含意も決して看過できませんが、それはひとまずここではおきましょう。
私が、綿野氏の「批判を批判として受け取らない」と言われても、それは当然でしょう。なぜなら、以下に述べるように、綿野氏の今回の「書評」が、目に余るほどの不足した「筆力が原因」で、本来なされるべき批判が、てんで批判として有効に機能していない文章だからです。
 では、見ていきます。まずは、先の引用に続く箇所から抜き出します。

「ただ、渡邉じしんは自著について「傍若無人で不遜な試み」と述べているが、むしろ私には手堅く慎重な研究のように思える。強いて言えば、キャメラマン篠田昇を介して、「映像圏」の先駆的シネアストであるらしい岩井俊二相米慎二と影響関係にあるとの指摘が、唯一の「傍若無人で不遜な試み」だろう。以前にも渡邉はこのことを論じており、今回改めて読み直してみたが、よくわからなかった。単純に違うと思うし、相米の名を借りねば岩井を評価できない弱さしか感じない」

 まず、正面からひとの議論の批判をするならば、筆者がそう考える最低限の根拠を示さなければならない。つまり、ここでは、具体的な箇所でいうと、
1.なぜ拙著が批評ではなく、「手堅く慎重な研究のように見える」のか(これはこの文章や先のツイートなどで「研究」がネガティヴな文脈に繋げられているので批判とみなせる)、
2.相米慎二岩井俊二を接続するのがなぜ「単純に違うと思」い、「弱さしか感じない」のか。
まともな「批判的」書評であれば、後半の文章は、綿野氏のこれらの、論点からすれば非常に重要なご見解の理由を簡潔に述べればよいはずです(ぜひこの部分をじっくり書いていただきたかった)。なぜなら、これを断定的に書いただけでは、ただの根拠薄弱な「非難的」感想ないし印象の域を出ず、先ほどの態度が示す「揶揄」を差し引いても、さほど有効な「批判」にはならないですから。
私の議論が「よくわからなかった」のであれば、その理由や背景をできる限り考えて書くことこそが、誠実な批判たりうるはずでしょう。そして、これが明快に記されていたならば、当然ですが、私は甘んじて綿野氏の批判を受け入れます。繰り返しますが、そんなのは当然です。なのに、綿野氏はこれでスルーします。
まず、この時点で、私はこの文章は掲載する/まともに読むに値しないと判断しました。

 しかし、綿野氏の「書評」はこの後、さらに常軌を逸したことを書いていきます。私がもっとも問題にするのは、この後半部分です。
 「しかし、このような批判は渡邉によれば「映像圏」を豊かにする「コミュニケーション」であるらしい」という、後で問題にしたい一文が挿入された後で、綿野氏は、拙著の「あとがき」の一部を、かなり唐突に、しかも書評の分量に比してかなり長々と引用します。それがこれです。

「本書のいたらない点、内容的な瑕疵などについては、読者のみなさんからの忌憚のないご批判を待ちたいと思う。しかし、いうまでもないが、そうした「映像圏」をめぐる無数の言葉のコミュニケーションの連鎖も、それじたいが今日においては紛れもなく映像圏の重要な構成要素だ。ぜひひとりでも多く、映像圏の豊かな拡張に参加していただければ幸いである」

 もし私なら、分量と構成も考えて、こんな長い引用はしません(できません)。なぜならば、自分の批判を説得的にするためには、まず上記の批判について一定の紙幅を割き、また、ほかの難点を指摘するにも、もっと「手堅く慎重」な説明をここで挿入するはずだからです。
 事実、たしかに綿野氏はTwitterで、「簡単に言ってしまえば、渡邉さんは「研究者」としては素晴らしいと評したつもりであり、その内容細かに紹介すべきでしたが紙幅の関係上断念」と書いてらっしゃいます。どうやら少しは書くべきと思う、積極的な論点があったようです。
しかし、これが私のさらなる逆鱗に触れ、心底呆れさせたことに、綿野氏はどうやら気づかなかったようです。これは単なる出来の悪い言い訳にすぎません。
なぜというと、そうであれば、先の冗長な引用を削って、その「「研究者」としては素晴らしい」という「内容」を、書評家としては細かに書けばよかったはず。書けずに断念(失敗)したのならば、結果的に、あのご自分も自信をもって認める無内容な「書評」が出来上がったわけで、私の駄本についてのこの程度の分量の書評すらまともに書けない綿野氏は書評者として筆力に根本的な問題がある。かたや、あえて書かなかったのであれば、やはり同じくこの「書評」が上がったわけで端的に書評の仕事自体を舐めている。私がTwitterで「やっつけ」だと評したのは、そういう意味です。
どちらにしても、綿野氏の行為は書評者として、最低です。補足や弁解がさらに墓穴を掘っている、よい例です。
私はこの時点で、「すみません、何を仰っているのか、よくわかりません…」と、相手をするのをやめた理由が、綿野氏におわかりになったでしょうか。綿野氏は勘違いをしたのか、くだくだとまた持論をツイートしていらっしゃいましたが、それらの内容はどうでもよかったのです。綿野氏という人物の、「お里が知れてきた」からです。
というか、客観的に見て、綿野氏の批判のテクニックは、総じてうまいとは言えません。おそらく、私のほうが、綿野氏の何倍も有効で説得的な渡邉大輔批判、『イメージの進行形』批判の書評が書けます。
ともあれ、綿野氏がこの引用を抜き出してしまった時点で、同業者の私から見ると、この論旨で書くなら単純に冗長でよけいだと思われました。
 そして、その証拠はすぐにやってきます。以下の記述はさらに端的に内容がなく、支離滅裂です。どういうことか。綿野氏は先の引用を受けて、すぐにこの一文を記します。

「渡邉への批判は「映像圏」を肯定し、それに奉仕するのだという」

この一文は、おわかりのとおり、先ほどの「しかし、このような批判は渡邉によれば「映像圏」を豊かにする「コミュニケーション」であるらしい」と対応しています。
ごくごく当然のことを言いますが、まず、先の引用の私の文章それ自体からは、「渡邉への批判は「映像圏」を肯定し、それに奉仕するのだ」という解釈(断定)には、どう読んでもそのまま導き出せません。せめて百歩も千歩も譲って、「〜というふうにも読める」くらいは、普通書くべきです。
こんなことを不用意に書いてしまう綿野氏のために、念には念を入れてご説明しますが、私としては、ここで書いたのは、仮にコミュニケーションの連鎖に満たされた「映像圏」なるものが想定されるとして、それは、私への肯定的な評価も、私にとっての否定的な批判も、そのどちらでもない言葉も、ともに含みこんだ、映像文化をめぐる「豊かな」言説空間が生まれることが望ましい、と、いかにも「あとがき」らしいごく素朴な感慨を述べているにすぎません。
私への批判さえもが(綿野氏の書く文章のように)無根拠に肯定され、奉仕される世界など、「豊か」でもなんでもないことぐらい、ごく普通に読んでわかります。「映像圏」と私の仕事を一切肯定しない、奉仕する気がない綿野氏のようなかたの言葉ももちろん寛容に受け入れます、そんな多様な世界を望みます、という意志表明です。
 綿野氏のような、かなりの独断と偏見で、直接的にはまったく読み込めない意味をこじつけ、著者を愚弄する横暴な態度とは正反対のものです。別に書評家でなくとも、誰でも読めばわかると思います。こうして長文の反論をしたためているのが、その何よりの証拠です。
 また、仮に、どうやら本を読む基本的なリテラシーが欠如していらっしゃると考えられる綿野氏が考えるような意味だったとして、たしかに、これは私のいう「映像圏」の本質に肉薄する有効な批判に繋がります。だとすれば、お好きな「批判」をしたいのなら、残念ながらここも説得力がほとんどないです。本論でない「あとがき」での一文をちまちまと参照するのでなく、少なくとも、あと一つくらい本論から、綿野氏がそう考える根拠を提示すべきでしょう。
……しかし、ここで終わりではなく、問題の本質はさらにその先にあります。
以上の前提がそもそも強引な論述運びで、意味をなさないのはいま見た通りですが、その後もドミノ倒し式に同じなのです。この以下の記述は本当に最低最悪なレベルのものです。曰く、

1.渡邉への批判は「映像圏」を肯定し、それに奉仕するのだという。2.なにかを賭けたように見せかけて、絶対に負けない勝負をすることをイカサマというけれど、3.このなにも賭けようとしない態度が論考全体の慎重さ(臆病さ?)に表れていると思う。別にイカサマ自体は否定しない。ならば、じしんが評価するウェルズぐらい鮮やかであってほしい」(数字は引用者)

 このあまりにひどい文言に倣っていえば、いまの綿野氏に必要なのは、その足りない実力に見合った「ものを書く」といういとなみに対する「臆病さ?」だと思います。もはやいちいち説明するのも野暮ですが、またも解説すると、
1.映像圏はすべての批判を肯定に変える(根拠薄弱の思い込みその1・論駁済み)⇒2.これは何かに賭けたように見せかけて絶対負けない勝負をする「イカサマ」(思い込みその2)⇒3.それは、何にも賭けようとしない論考全体の「手堅い慎重さ(臆病さ)」に由来する(というあまりに雑駁な全体の印象にいきなり結びつけられる。)(思い込みその3)……

 ……繋がりません。
 以上の123の断定の間にはそれぞれ、どう考えても論理的・説得的に接続できない、綿野氏のその独断と偏見とイデオロギーに満ちた頭と文章技術をもってしかなしえない、超絶的な飛躍があります
そもそも映像圏が「すべての批判を肯定に変えること」が、なぜ絶対負けない勝負をする「イカサマ」に繋がるのか、そして、絶対負けない勝負をする「イカサマ」が、どのように(綿野氏がぼんやりと考える)論考全体の「慎重さ(臆病さ?)」に繋がるのか。
 もはや綿野氏のお決まりのパターンですが、根拠の弱い細部とざっくりした思い込みとを掛け合わせて、いきなり断定され、そして、そのままスルーされても、綿野氏ならぬごく常識的な読者はよく意味がわかりません
 それは、綿野氏の頭の中で作られた「論理」(物語)です。もちろん、すべての論理は頭の中で作られます。しかし、他者を口汚く批判(罵倒)するならばなおさら、限られた紙幅の中で、綿密で具体的な論証が必要でしょう。それがない文章を、ひとは「イカサマ」と呼びます。
綿野氏は、私の議論の「牽強付会」を「非難」しますが、この綿野氏の支離滅裂さに較べれば、はるかにマシだと思っています。
ここで話を戻すと、ここの論述を説得的に紡ぐためには、やはり分量的に先ほどの引用箇所は、どう考えてもよけいです。削ってここの批判の展開をすべきでした。
綿野氏は、Twitterで「イカサマ」という意味は否定的に使ってないじゃないですかというような、言い訳なのか責任逃れなのか、よくわからないことをおっしゃっていましたが、くどいように、ごく普通のひとが文章の流れを読めば、文脈的にも、それは単純にたちの悪い皮肉と罵倒にしか映りません。それが「ひとを舐めた態度」だと申し上げたことです。
以上、とりあえずの反論で、まだまだいくらでも穴を指摘できますが、今回の「書評」に関して、綿野氏のいう拙著への「ご批判」は端的に無効と判断します。なぜなら、これが、主に「筆力不足」に由来するだろう、ことごとく無意味で不誠実な文章だからです。

そして、もし仮に、本当に、否定的な意味で使っていないのだとしても、「イカサマ」(いんちき)という表現は、きわめて強い表現です。まともな常識と神経を持っている人間ならば、他人の仕事に向かっておいそれと使えない。仮に私の本が「イカサマ」(いんちき)だったとして、綿野氏のこの支離滅裂で侮辱的、揶揄的、罵倒的な記述のオンパレードこそ、「イカサマ」そのものだと思うのですが、それに対して、「ご都合主義的態度」を強く嫌う、正義感あふるる綿野氏は、ではきっと、プロの物書きとして当然、私(と人文書院編集部)にきっちりとした落とし前をつけていただけるのでしょう
当人にどんな含意があれ、「イカサマ」まがいの論理で、ひとを「イカサマ」呼ばわりしたわけですから、文筆家として、それなりの責任が派生すると思います。ぜひ侮辱した私と人文書院編集部に対して、「手堅く慎重」に何らかの落とし前をつけられることを心から要望します。



 いささか長くなりました。
 いずれにせよ、まとめるとこういうことです。
1.綿野恵太氏の今回『映画芸術』誌に書かれた『イメージの進行形』の「書評」は、以上挙げたような数々の根本的な欠陥と(少なくともこの原稿での)「実力不足」において、「書評」と呼ぶに値しない。
2.また、このような驚くべき文章をやすやすと書き、また、加えて著者を直接、侮辱し、それに対して何ら自覚的でない綿野氏は、おそらく相応の確率で、プロの文筆家としての資質や資格がない可能性がある(しかし、綿野氏の仕事、実績全体の評価に関してはほとんど知らないし、また知る気もないので、この判断は「手堅く慎重」に「保留」する)。
3.また、このような論外の「書評」を掲載する『映画芸術』誌は、雑誌としての誠意やチェック機能に欠けていると考えざるをえない。
 
以上の結論から、私は先日、『映画芸術』編集部に正式に抗議しました。まだ回答はいただけておりませんが、日本を代表する有名で先鋭的な映画雑誌のひとつなのですから、真摯な対応を希望しています。

 最後に、忘れないように強調しておきます。最も重要なのは、結局、そもそも最初に、私を含む今回の事態を起こしたのは、綿野恵太氏と、綿野氏の文章を掲載した『映画芸術』編集部です。
ひとまず綿野氏に関しては、今後、さも鬼の首を取ったような感じで、先日のように、重箱の隅をつつくような「経歴」や「悪意」という表現がどうたらだの(この件ももしご不満があれば、別途対応するつもりです)、私のこの反論の文面に対する当てこすりやいいがかりの類は、一切結構です。
こちらからは、まず以上の「書評」の件についての「根本的」な回答と誠心誠意の謝罪を求めます
私は今回、最初から、そもそもの発端の、『映画芸術』に掲載された、あなたの「書評」の内容だけを問題にしています。それ以外の反論・揶揄・言い訳・弁解等々は当然ですが、興味はないし、一切受け付けません。

以上