評論・ミステリ・アカデミズム――市川尚吾氏に答える(1)


渡邉大輔です。
今年の八月、「探偵小説研究会」によるミステリ同人批評誌『CRITICA』第六号に、ミステリ評論家・市川尚吾氏による「極私的評論論」が掲載されました。⇒「CRITICA」:探偵小説研究会
内容は、要約すれば、「極私的」と題名にある通り、市川氏個人の「評論」や「文芸評論家」に対する見解と、それに具体例として絡めた、わたし(渡邉大輔)、藤田直哉氏、小森健太朗氏、及び三人の所属する「限界小説研究会」に対する痛烈な批判です。自身、実力派の本格ミステリ作家「乾くるみ」であるばかりか、批評家としても精力的に活躍を続ける市川氏からのわたしたちに対する忌憚のない批判はいちおうのところ望ましいものであり、そのことには率直に感謝しています。わたし自身、乾くるみの作品は『イニシエーション・ラブ』をはじめ何冊か愛読してもいましたし、市川氏とは本格ミステリ大賞候補作予選委員の仕事では、同じ委員同士としてお世話にもなりました。
 ですが、市川氏による今回のわたし、及び限界研に対する批判の内容は、これから述べるように、ほとんど「いいがかり」に近い、いわば「イミフ」の論旨であり、このままスル―しようかとも考えたのですが(実際にそういうご意見もいただきました)、少なからずほかの方々にも誤解を与えそうな部分が散見されましたので、ここで反論を二回にわたって掲載します。(藤田・小森両氏、及び限界研全体に対する批判へは煩雑になるので触れません。ちなみに藤田氏はツイッターにて短く的確な反論を述べています)

まず、市川氏の批判の内容を引用を交えて要約しておきましょう。
 市川氏はまず、「評論」というジャンルを、書き手のスタンスによって大きく二つのスタイルに区別します。第一のものは、「手段としての評論」で、「まず最初に言いたいことがあって、それを伝えるために『評論という手段』を用いた」もの(「まず伝えたい内容ありき」のタイプの評論)で、市川氏は、島田荘司氏や若島正氏などの一連のミステリ論を例に挙げています。そして、第二のものとして氏が挙げるのが、「目的としての評論」というものです。こちらは前者のいわば逆で、「まず評論という表現形式ありきで書かれたもの」「評論を書くという目的がまずあって、そのために、それに見合った内容をこしらえるという段階を踏んで書かれたもの」だといいます。市川氏はこの「目的としての評論」を、さらに「最大の目的が自己満足であるような評論」「評論を書くオレ様ってカッコイイ、という自己陶酔のために書かれた評論」を指す「オレ様評論」と、そうではなく、「評論の『読者』に対するサービス精神が感じられるもの」としての「娯楽としての評論」の二つに分けています。このうち、市川氏が最も評価するのは、「手段としての評論」、ちなみに、最も否定されるのが、いわば「公開オナニー」のようなものである「オレ様評論」ということになります。また、氏によれば、「手段としての評論」しか認めないのであれば、「職業としての『文芸評論家』はいなくなってしまう」、「いくら理想を高く持っていても、原理的に言って、質を落とさずにずっと『文芸評論家』でい続けることはできない」。そこで、市川氏は現今の評論家を、「ネタ切れ」を自覚的に隠し、「場繋ぎ的な『芸』も交えつつ、評論をつねに書き続けている」人種だと規定します。
 いずれにしろ、市川氏にとって、「オレ様評論」なるものは、それを書くのは当人の勝手だし、読んで不快な思いをするのも読者の自己責任ですが、それはともかく「犯罪」とすら呼ぶべき徹底して否定されるものです。したがって、「オレ様評論」は、「媒体とそれに付随する読者層」から鑑みて不適当な「場」で発表された際には、批判されてしかるべきものとなるのです。ちなみにいえば、この文章での市川氏の一人称は「オレ」であり、これはその「オレ様評論」の書き手を意図的に揶揄するために用いられていると考えるべきでしょう。
 市川氏はその後、評論家の「技量」の問題に話を進めます。詳細は略しますが、そこで氏が問題視するのは、評論が書かれる際に、基礎知識として「入力」される対象のひとつとしての、いわば「評論的」な知識です。当然ながら、他ジャンルと同様、「評論」にもまた独自のジャンル規則や評論書き/読みのあいだで使われる無数のジャーゴン(専門用語)がある。評論家はときに、そうした評論ジャンル内部の規則やジャーゴンを使い、それによって独自の魅力を醸し出すことに成功したりもしますが、市川氏は、それらが無為に乱用されるケースこそ「オレ様評論」の最たるものだとし、「手段としての評論」としてより広い読者に自分の主張を届けたいならば、「パサージュとかコンテクストとかいう言葉を、そもそも『入力』しなければいいのに」と指摘します。氏がそうした「一般人と同じ基礎知識で評論を書かない」タイプのひとびとの典型として挙げるのが、いわゆる「アカデミズム」です。氏はこう書きます。「アカデミズムが腐っているのは、権威主義的に『入力』の質・量が評価(審査)の対象になるシステムを採用しているからで、だからアカデミズムの中にいる人はついつい『出力』の際に『自分はこれだけの入力をして理解してますよ』とアピールする癖がついてしまうのだ。[…]これは『オレ様評論』にとってはむしろ望むところだが(内容が伝わりにくい=内容がないことがバレない=自己陶酔に浸れる)、内容に自信があり、それをなるべく多くの人に伝えたいという目的で書かれた『手段としての評論』の場合には、そんな夾雑物が無用の長物。できれば排除したいものである」(147頁)。
 この主張も驚くべきものですが、ひとまず内容に戻りましょう。市川氏によれば、たとえば東浩紀氏や笠井潔氏、小森健太朗氏などの書く論文は、一方で、多量の「入力」が有効な結果を生み出し、また他方で、「オレ様評論」にならない気遣いに長けているので問題がない。「しかし彼らのまわりに集まってくる若い評論家たちは、なぜか彼らの『出力』をではなく『入力』ばかりを見習って、吐気のするような『オレ様評論』を平気で書いてしまう。商業出版の場にアカデミズム的価値観を平気で持ち込んでしまう」と批判するのです。
 そして、結論からいえば、そうした「商業出版の場にアカデミズム的価値観を平気で持ち込んでしまう」「吐気のするような『オレ様評論』」の書き手の恰好の例がほかならぬわたし(渡邉)であり、対して、そうした隘路を免れているのが、わたしとほぼ同世代(五歳年長)の若手ミステリ評論家で、著書『現代本格ミステリの研究』(一〇年)で本格ミステリ大賞候補に選出された諸岡卓真氏だと、市川氏はいいます。
 氏は、北海道大学大学院文学研究科に提出された諸岡氏の博士論文である同書が、「文学研究/ミステリ評論としての専門性を維持しつつ、どのようにしてもう一方のフィールドへ接続していくかということを意識して記述・構成された」(『現代本格ミステリの研究』、236頁)点をきわめて高く評価し、「ふたつの論文〔註:文学研究論文とミステリ評論〕の乖離を問題視した諸岡卓真は、自身の博士論文を書くにあたって、商業誌に載せられるタイプの評論を書き、博士論文として認めさせることに成功した」と絶賛します。
 「にもかかわらず」――と、ここから市川氏のわたしに対する批判、というか罵倒が来るわけです。以下、批判の内容を直接引用します。

[…]渡邉大輔は、アカデミズムの硬直化した価値観に無自覚に同調して、諸岡の評論書を見下すような発言をしていた。本格ミステリ大賞の予選委員が集まった選考会の場でのことである。録音していたわけではないので正確に再現することはできないが、おおよそ次のようなことを述べていた。
「自分は博士論文を提出した後なので言えるが、諸岡の評論は、博士論文として評価すると物足りない。だから積極的に推すのがためらわれる」
本格ミステリ大賞の候補作選定の場にアカデミズム的価値観を持ち込むこと自体が疑問だが、諸岡の著作が大学の出版局の刊行物であり、アカデミズムの援助を受けて世に出ていることを考え合わせれば、出版の妥当性から考えてみようという観点ではギリギリ許せる範囲かもしれない[…]。
問題は渡邉が、大学アカデミズムの徒弟制度が生み出した、評論の「内容より形式」に重きを置いた評価方法(価値観)を、まったく疑問に思っていないように窺われることである。オレの立場からすれば、それを疑問に思っていない時点で、渡邉は評論家として諸岡より下に位置している。旧来の価値観べったりの渡邉が、それではいけないと問題意識を持って新しい試みに挑戦した諸岡のことを理解しようともせず、旧来の価値観に従って切り捨てようとした、その醜悪さは、少なくとも本人に自覚してもらわないとならないと思って、オレはいまこの文章を書いている[…]。
 オレの目から見れば、諸岡卓真は評論家として、渡邉大輔よりはるかに上位に位置している。(149-150頁)

……わたしに対する批判、そして、限界研へのそれはこの後もあと少し続くのですが、ここらで止めておきましょう。さて、前置きが長くなりましたが、わたしから市川氏に対する反論を始めます。

1.評論について
まず、前段の評論についてです。ここで市川氏の書かれていること(ある種の評論の一般人からの「読みにくさ」=難しさについて)はひとまずもっともなこと、というか、これまでにも小林秀雄の昔から連綿といわれ続けてきたあるタイプの「評論」に対する批判のテンプレとさほど変わらないので、「ああ、そうですね」という感じしかしない。わたしも原則的には市川氏のいう「手段としての評論」の重要性は支持しますし、なるべくプラグマティックに、より多くのひとに自分の主張を伝えるべきだという考えです。なるべく小難しいジャーゴンや書き方を用いないほうがよい、というのもその通りでしょう。市川氏がわたしを含めた若手評論家たちの書くものにその種の配慮が欠落しているとお感じなのであれば、そこはご指摘の通り率直に反省すべき部分です。とはいえ、東浩紀氏にしろ、確かまだデビューしたてのころには、同様なことで批判されていたように記憶しますし、それは笠井氏や小森氏にせよ、似たようなところではないでしょうか。たとえば、蓮實重彦氏などは、過去のある時期の著作はむかしのいまも「すごく読みにくい」と多くの読書家にはいわれ続けています(笑)。市川氏はご存じないでしょうから説明しますと、そもそも「読みにくさ」という点では、「近代日本における批評の確立者」といわれる小林秀雄からして(若いころはとりわけ)「悪文家」として有名で、翻訳はひどいし、当時、流行していたアーサー・シモンズの『表象派の文学運動』という本にかぶれて、自意識丸出しの「オレ様評論」を書きまくっていたのです。そういう批評の歴史を知る者からすると、(別に正当化はしないものの)むしろ市川氏が邪道として忌避する「オレ様評論」こそ、批評の本道ではないか、といういい方がいいすぎにしても、その重要なDNAではないかと思えます。
市川氏の主張は確かにもっともですが、それは評論についてあまりよく分かっていないひとのいう典型的な文句であり、「手段としての評論」と「目的としての評論」はそれほど厳密に区別できないし、あまり分ける必要もない。小林秀雄が筋金入りの「悪文家」で「オレ様評論」の書き手でも現在、「批評の神様」として日本文学史に刻まれているように、それが「オレ様評論」かどうかは第一に、(市川氏がいうように)「読者」、そして、「歴史」が決めることです。だいたい書き手がどれだけ「手段として」評論を書こうと思い、「娯楽としての評論」を目指していても、市川氏のいう通り、「オレ様評論」かどうかを決めるのは読者なわけですから、こちら(書き手)としては最終的には対応のしようがない。反証可能性のない批判です。いい添えておけば、市川氏の危惧とは裏腹に、今回の氏の文章こそ、わたしを含めた誰のものよりもきわめて「醜悪な」「オレ様評論」のようにわたしには読めます(笑えないギャグかもしれませんが、「極私的」と姑息にも自己申告しているのだから当然ですが)。ひとまず十年後くらいに、わたしが評論界から一切評価されなくなり姿を消していたら、そのとき改めて心おきなく罵倒していただければと思います。
また、一方で、評論というものは、小説や映画などの物語ジャンルと異なって(わたしは評論もまた一種の「物語」であり、それは「研究」とはなるべく区別されるべきものだと思いますが)、じつは単純に多くの読者に届けばよいというものではありません。むしろ、きわめてハードコアな数十人に読まれることで世界が変わってしまう可能性がある、そんな特殊な領域が評論なのです。そして、そのためにはある種の評論的厳密さ(それが一般読者には分かりにくさに見える)を伴ったジャーゴンや一般には難解な書き方、あるいは多少ナルシスティックな身振りが必要とされる場合もあります。たとえば、市川氏が例に挙げている「パサージュ」という語にしても、単純に「知っているから」「自分が頭よく見せたいためだけ」に使っていると考えるのは、市川氏の評論に対する無知で姑息な勘ぐりでしかありません。「パサージュ」を単に「通路」や「アーケード」と書いてはそこから抜け落ちる多くの有意義な批評的含意があるし、逆に、そこにこめられたボードレールベンヤミン、近代都市論などなどの無数の文脈をいちいち説明していては紙幅の無駄になってむしろ読者に煩瑣な思いをさせてしまいます。それに、わたしは思うのですが、本当に評論が好きな人間というのは(あるタイプの、とちょっと譲歩しておきますが)、ある評論文のなかに、「パサージュ」やら「コンテクスト」やら、デリダラカンの引用が入っていたら、むしろ「これはなんだろう?どういう意味だろう?」とわくわくして気になるものではないのでしょうか。少なくとも、わたしはそうやって評論の魅力に目覚めたし、デリダラカンの魅力に目覚めました。わたしがデリダラカンらを評論で援用するのも、ひとつにはそれが彼らの著作の魅力を自分の評論文を通じて伝え、より多くの(別に少なくてもよい)評論好き/評論家志望者たちに知ってもらいたいがためです。
もちろん、その試みが成功しているか失敗しているかは重要な問題でしょう。ですが、そうした身振りを十把一絡げに否定してしまうのは、いい迷惑、大きなお世話としかいいようがない。そして、わたしの周りやネット上での反応を見る限り、そうしたわたしの評論スタイルがすべて失敗しているとはいえないと思います。ただの「オレ様評論」ばかり書いていたら、この六年間、それなりに仕事をできていたはずもないし、繰り返しますが、見方によっては、「ただの『オレ様評論』ではない評論」など、わたしの考えではほとんど存在しない。それも良質の批評に限って。なんなら市川氏が高く評価する島田荘司氏の評論にしろ、一部のものは明らかに「オレ様評論」です(そして、それをわたしは瑕疵だとは思いません)。何度もいうように、ただの「オレ様評論」かどうかは現在、そして将来的に、読者と市場と、評論の歴史が決めることです。
とはいえ、前段の批判に対しての応答はこんなところでよいでしょう。これは評論に対するごく一般的にある「苦情」のひとつだし、別にわたしや限界研だけでなく、『ユリイカ』あたりで書いているほかの多くの(若手)評論家も同様にあてはまりそうです(別にほかの評論家の方々に火の子をふりまく気はありません)。しかしながら、ここだけ見てもわかるように、市川氏という人物はどうやら、第一に、評論なりなんなりある対象に対するご自分のイメージの思いこみがじつに狭く、しかも第二に、それがひどく素朴であるようです。いわゆる(市川氏のお嫌いな批評的ジャーゴンを使えば)「他者への想像力」に著しく欠けているといえるでしょう。
そして、それはほかならぬわたしに対しての個別的な批判にもあてはまります。市川氏はおそらくこれをわたしがいまだ無名の新人評論家であることをいいことに遊び半分で猫パンチをかますような気分で書いたのでしょうが、明らかに不要の悪意を感じるので、自分の名誉のためにも次回のエントリで、多少、反論を書かせていただきます。今回はここまで。