評論・ミステリ・アカデミズム――市川尚吾氏に答える(2)


渡邉大輔です。
昨夜、ブログにアップした市川尚吾氏に対する反論の続きです。

2.渡邉批判について
 さて、前回、引用しておいた市川氏のわたしに対する批判ですが、個別的な論点ごとにお応えしていきたいと思います。市川氏による渡邉批判は、基本的には前段の「オレ様評論」批判の延長上にあるものですが、短く要約すると、今年二月に光文社で開催された第11回本格ミステリ大賞候補作の予選選考会の席上での、諸岡卓真氏の『現代本格ミステリの研究』に対するわたしの「アカデミズム的価値観」からの評価にあるようです。
 まず、市川氏がどうやら博士論文云々という「内容より形式」について勝手に拘っていることから、わたしも批判の中身とは直接には関係のない、周縁的な――ですが、決定的におかしな――ことから応答すると、まず疑問なのは、わたしの発言に対して先ほどのような辛辣な疑問をあの場でお持ちになったのならば、なぜ、あの会場の席上でわたしに向かってニコニコと偽善的に応対せずに(「ニコニコと」はしていなかったかもしれませんが、少なくとも特別に敵意のようなものは感じなかった)、単刀直入に「その判断基準は違うのではないか」とご指摘くださらなかったのでしょう。これは、選考そのものにも関わることです。もしわたしに選考上の非があったのならば、ことと次第によってはその場で自分の考えを訂正ないし謝罪しますし、それによって、より公正な判断にすることができたのではないでしょうか。それを肝心な席で黙っておいて、半年近く経ってから文書の、それも意図的に歪曲された書き方で公然と批判するという姿勢にはわたしは納得しかねます。むしろそうした姑息な態度は、市川氏が評価する諸岡氏の労著に対しても非礼をおかすことになりはしないでしょうか。率直にいって、今回の批判に対するわたしの実質的な反論は以上に尽きます。

 あとの批判の中身については、実際、よく分かりません。なお、ここでは、直接的には、わたしの発言とそれによる市川氏の批判の内容について扱いたいと思いますので、わたしが候補作として「積極的な形では」推さず、結果的に大賞受賞作としても推さなかった、問題の諸岡氏の著作の評価については必要以外のことは具体的には踏み込まないことにします(ここはわたしも記憶が曖昧なのですが、市川氏が「積極的に推すのがためらわれる」と発言部分で書いているように、自分の当時の感覚としては、わたしは、選考の際に、諸岡氏の著作において考慮されるべき難点を指摘したつもりで、候補作に推すことじたいを全拒否したわけではなかったと思います)。ちなみに、わたしはまだ諸岡氏とは直接お会いしたことがなく、今回の件で諸岡氏はわたしに対して否定的な印象をすでにお持ちなのかもしれませんが(実際、多分にこんな横槍で失礼をしていることは承知しています)、わたしも(そして、おそらく諸岡氏のほうも)不要な諍いを増やすことは本意でないため、もしわたしの評価に疑問がおありでしたら、別途対応したいとは思います。一言だけいっておけば、ミステリ評論家としての諸岡氏のお仕事は管見の限りで興味深く読んでいますし、個々のお仕事の評価は是々非々で、氏の才能や力量そのものを否定する気は一切ありません。『現代本格ミステリの研究』もミステリ評論として読めばきわめて傑出した書物だと思います。
 さて、まずよく分からないのは、なぜ「本格ミステリ大賞の候補作選定の場にアカデミズム的価値観を持ち込むこと自体が疑問」なのでしょうか? 市川氏の書いているわたしの発言は、ほぼ正確なものです。しかし、これを読んでもどこがいけないのか、わたしにはさっぱりわかりません。
諸岡氏の著作が著者のいうように、「文学研究/ミステリ評論としての専門性を維持しつつ、どのようにしてもう一方のフィールドへ接続していくかということを意識して記述・構成された」本であったにせよ、それが何よりも「博士論文」として提出され、上梓されたものである以上、そこに「博士論文」であることを評価基準にしてはいけない理由など何もないはずです。さらにつけ加えれば、わたしは、この本が1.「文学研究/ミステリ評論としての専門性を維持しつつ」両者「のフィールドへ接続」していく作業としてもうまくいっていないのではないか――つまり、簡潔にいえば、諸岡氏の今回の著作は、「文学研究」としては押さえる視野や論証の詰めがまだ弱いのではないか、そして、学問的実証性の強度を保ちつつ、一方で「商業的」な文体で書くことも可能だったはず、そして2.その試みに比較すれば、総体的な成果として『物語日本推理小説史』や『エラリー・クイーン論』のほうがより評価に値する、と判断したからこそ、一種のエクスキューズのつもりで「アカデミズム的価値観」をひとつの参照点として指摘したのです。つまり、市川氏が『現代本格ミステリの研究』の「文学研究/ミステリ評論としての専門性を維持しつつ、どのようにしてもう一方のフィールドへ接続していくかということを意識して記述・構成された」部分を評価したのと同じように、わたしは「北海道大学大学院文学研究科に提出された博士論文」(同書、235頁)であることをより重要視したにすぎません。これもまた内容の判断に関わるものです。なぜ後者のほうが無視しえる(不公正になりえる)要因になりえるのか、市川氏の批判からはわかりません。
 ちなみに、市川氏は選考会の席で『現代本格ミステリの研究』を「博士論文」としての観点からは「積極的に評価できない」(繰り返しますが、本を全否定などしていません)と指摘したのは市川、諸岡両氏よりも年下のわたしだけのような書き方をしていますが、まったく同じ見解を、あの場で予選委員の一人である小森健太朗氏も表明していました。妙な歪曲はやめていただきたいと思いますし、仮にその評価基準がおかしいのならば、わたしと一緒にミステリ評論・研究の第一人者・小森氏とともに委員「失格」だと批判していただきたいと思います。むしろ現場の経緯をこんな形で歪曲して伝える市川氏の態度こそ問題にされるべきではないでしょうか。

 ところで、わたしの評価基準は本格ミステリ大賞の規定として間違ったものなのでしょうか?試みに、本格ミステリ作家クラブの会則第7章「本格ミステリ大賞」第35条を参照すると、「本格ミステリ大賞評論・研究部門の対象作品は、[…]評論、編著書および出版企画とし[…]」とあります。これを読むと、確かに、選考される基準は「評論」にあり、市川氏のいうように「アカデミズム的価値観」を持ち込んだわたしの選考は間違いであり、否定されなければならないのかもしれません。しかし、だとすれば、たとえ「文学研究/ミステリ評論としての専門性を維持しつつ、どのようにしてもう一方のフィールドへ接続していくかということを意識して記述・構成された」にせよ、明らかに「学術論文」として書かれ(それで学位を取得されたのだから当然)、「学術書」として出版された『現代本格ミステリの研究』は候補作の資格すらないはずです。確認しておきますが、諸岡氏の著作を「商業出版」として看做したいのは市川氏個人(あるいは本格ミステリ作家クラブ?)の意向であり、「北海道大学出版会」から助成金を使って「研究叢書」と付されて出版されている以上、(諸岡氏の研究者としてのねらいとはまた別の次元で)『現代本格ミステリの研究』は、まずは一般的に「学術書」として看做され、売られ、評価されざるをえません(市川氏はなぜか変な勘違いをしていますが、この著作じたいが商業媒体で発表されていない以上、最初から「商業的」な著作物とは見做せません)。少なくとも、わたしがそう考える妥当性は、市川氏の反論内容以上にあります。市川氏の主張には何か根本的な勘違いがあります。
さらに、わたしが気になるのは、「評論・研究部門」という名称でした。クラブ会則にあるように、別にすべての論著を「評論」としてのみ評価するべきならば、単に「評論部門」でよいでしょう。わたしはここに、「評論」としてだけでなく、きちんと「研究」としても評価する選考をすべき部門であるというメタメッセージを読みとり、その対象として諸岡氏の本を僭越ながら自分なりに評価させていただいたというにすぎません。
 そのうえでいえば、「自分は博士論文を提出した後なので言えるが…」云々というのは、別にエラそうにいったわけではありません(当たり前ですが…)。同じく博士論文を書き、数年間それなりの苦労をして学位を取得した経験のある者でなければ、領域は違えどある程度公正に「学術的」な判断はできないでしょう。単純にそれなしでは(市川氏のように)憶測交じりの「いいがかり」になってしまいます。あの場では「博士論文としてはちょっと評価しがたいのでは」という自分固有の発言・判断の正当性を根拠づけるためにつつましやかにほかの委員のみなさんに申し上げたにすぎない。むしろ、博士論文を取得しているミステリ関係者など数少ないはずだし、それでは『現代本格ミステリの研究』という労作のある重要なフェーズを判断するときに選考会で正当性を欠いてしまう恐れがあるのではないか…そんな「老婆心的」判断から、あえて申し上げたにすぎません。そんなこちらの善意を批判されるならば、何もできません。

 そもそも市川氏は諸岡氏の著作をわたしが「見下している」などと書いています。はぁ?そんなわけないでしょう。それこそわたしが固執しているという「アカデミズム的価値観」(偏差値とか・笑)に照らせば、日芸出身のわたしよりも北大で学位をとった諸岡氏のほうがはるかに学歴もあり、普通の意味で頭もよいのではないでしょうか。仮に諸岡氏にわたしが学力の面で「見下される」ことはあっても(冗談ですが!)、逆はありえないと、これは固く申し上げておきます。それに、念のためいっておきますが、研究者の世界では、口頭発表の際などに、「博士論文としては充分だ/不充分だ」ということは、研究者と聴衆(知人)同士の個人の「感想」(個別の評価)として普通にいいあわれているものです。それは東大だろうが京大だろうが北大だろうが日大だろうが変わらないでしょう。本人に不愉快に思われることはあれ、その個別判断のどこがいけないのか。

さらに、こうして氏の主張をつらつら眺めていると、どうやら氏の渡邉批判には、根本的に氏の一方的な「アカデミズム的価値観」に対する嫌悪――いうなれば、「アカデミズムフォビア」とでも呼ぶべきものがあるようです。わたしがそこで愕然とし、もはや怒る、というよりも哀しく、呆れるほかないのは、市川氏のアカデミズム批判の中の次の記述です。

アカデミズムの場というのは、実情はよく知らないのだが、イメージ的に何となく、教授がいて学生がいて、前者が後者に評論の書き方を教えていて、それとは違った書き方をしたら教授がダメ出しをするという、一種の「徒弟制度」によって成り立っているというような世界を思い浮かべてしまう。

……はぁ!???市川氏のアカデミズムに対する否定的な「憶測」記述はこの後も続くのですが、もうよいでしょう。つまり、驚くべきことに、市川氏はさんざん否定的な言辞を並べ、ひとのことを口汚く罵倒しておいて、その根拠となるべき「アカデミズムの場」については「実情はよく知らない」し、「何となく」「思い浮かべてしまう」程度の知識しかないと自分から告白しているのです。この箇所を読んで、わたしは心底氏の態度にうんざりしました。それでは、自分は「オレ様評論」以下の揶揄めいた批判しか書けず、批評的強度を持った優れた評論でも単なる「オレ様評論」としか読めないはずです。
 念のため書いておきますが、実際の「アカデミズムの場」は市川氏が想定しているような世界ではありません。それは、一部では「革新が起こり得ない強権的世界」や「日本人的な『徒弟制度』が構造的に温存されている『場』」という側面もあるかもしれません。しかし、それはどの世界でも、たとえば、市川氏のトチ狂った批判を見る限り、ミステリ業界もまた同じでしょう。むしろ、学術研究の領域は、市川氏の愛する「商業出版」とは文脈も求められている機能もはなから違うのですから、一般読者から「閉鎖的」で「強権的」に見えても、それは当然です。ないものねだりのわがままにすぎません。わたしは、そうした狭隘で閉鎖的な価値観を持った人間になるべくなりたくないから、学術研究もやるし、映画の評論も、ミステリやアートの評論も何でもやっているのです。そうしたわたしの態度や力量がまずければ、むろん、自然と依頼も来なくなるでしょう。それでかまいません。
 また、非アカデミシャンがアカデミズムの世界について知ったような口を訊くな、といっているのでもない。わたしのスタンスでは、映画を一本しか観たことがない人間でも映画を評論する資格は(権利として)あるはずです。それを否定する変なジャンル教養主義こそ、映画にせよミステリにせよ、わたしが最も排除したいものです。しかし、いくらその世界を体験していないにせよ、ひとを非難するのなら、最低限、反論された際に応えられるくらいのその世界の知識は仕入れておくのが常識的な態度でしょう。わたし――そして、少なくとも、全国に何千人か何万人かいるか知りませんが、ときに「高学歴ワーキングプア」と呼ばれながら、必死で学会発表や非常勤や論文執筆をこなし、それぞれの学問の向上に夢を賭けているはずの文系大学研究者たちを、市川氏は一瞬で敵に回したことになります。それも最悪に舐めた態度で。
 市川氏は、「そういった〔註:アカデミズムの〕制度が、アカデミズムの世界における論文と、一般的に読まれる文芸評論の乖離を招いてゆく。後者を実戦で鍛えられたケンカ空手だとしたら、前者は型を重視する空手教室の空手である」とさらりと書いていますが、これもまた当然の話ですが、アカデミズムの世界もまた過酷な「実戦」が必要とされる「ケンカ空手」の世界です。ただ、それは学問的実証性とか厳密な論証とか視点の広さとか語学の堪能さとか、商業的な「文芸評論」とはその要求される事柄が異なるにすぎません。何度も学会誌に投稿して査読で落とされ続けるとか、就職で落とされ続けるとか、商業にはない「戦い」はいくらもあります。
また、アカデミズム的な論文が仮に専門的なジャーゴンや難解に見える書き方をしているのだとすれば、それは氏の邪推するような、「『自分はこれだけの入力をして理解してますよ』とアピールする癖」でも「内容が伝わりにくい=内容がないことがバレない=自己陶酔に浸れる」からでもありません。単に学問的厳密さと実証性と論証のためです。表層的な論文は普通に査読で落とされます。笑止というほかありません。市川氏は作家でもあるのですから、ぜひそうした想像力を逞しくしていただきたい。そして、悪い冗談はその小説の中だけにしていただきたい。

 ……わたしからの反論はひとまず以上です。
 市川氏の渡邉批判の後半は、わたしの評論家としての「技量」(出力)のひどさが批判されています。これもまた市川氏のもともとの論拠がきわめて曖昧なものなので、ほぼスル―してよいものと思います。ちなみに、ここで市川氏が渡邉の「吐気のするような『オレ様評論』」の例として出している『サブカルチャー戦争』の阿部和重論と、おそらくは『ジャーロ』に掲載された「謎のリアリティ」の原稿は、確かにわたしの仕事としてはあまり出来のよいものだとは自分でも思っていません(笑)。先ほど、ミステリ評論家の千街晶之氏がこの件についてツイッターで、「わざわざ悪文さがすごく露呈している箇所を引用してくる市川氏の底意地の悪さに笑った」というようなことを的確につぶやいてくださいましたが、確かに、わたしもこれには苦笑しました(笑)。多少、言い訳じみたことをいえば、この二つの文章を書いていた時期は、じつはまさに、600枚前後の博士論文を仕上げる修羅場に直面していたからです。
この点について、千街氏は「ここを引用されたら自己弁護は難しい」とつぶやかれていましたが、しかし、何年か文筆を生業としている方々はおわかりかと思いますが、こんな筆の滑りくらいは、それは誰にでも粗を探せばあるものですよ!それに、わたしのこれまでの仕事のうちでもこの二つは、かなり傍流的な、しかも瑣末なものにすぎず、本質を突いた指摘とは思えません。それをいったら、今回の市川氏の批判文はまるでボブスレー並みの筆の滑り具合です。また、完全な想像でいいますが、市川氏は「謎のリアリティ」の論文を「誰でも調べれば書けるレベル」と書いていますが、果たして山本喜久男の『日本映画における外国映画の影響』やアーロン・ジェローの学術論文をどれだけの人が知っているでしょうか。蛇足ながら、阿部和重論のほうも文芸評論家の町口哲生氏には好意的に評していただきましたし(『週刊読書人』)、とりたてて受け入れるほどの批判ではないと判断しました。
 それより、市川氏の批判対象についての「勉強不足」のほうがはるかに心配です。市川氏は諸岡氏の「ふたつの論文〔註:文学研究論文とミステリ評論〕の乖離を問題視し」、「自身の博士論文を書くにあたって、商業誌に載せられるタイプの評論を書き、博士論文として認めさせることに成功した」点を高く評価していますが、学術研究とジャーナリスティックな評論の乖離を埋めたいという「象牙の塔に新しい風を通そうという」意識は、じつはわたしも諸岡氏同様、強く持っていて、たとえば、現在、早稲田文学のウェブサイトで連載している「イメージの進行形」という映画文化論などは、そうしたコンセプトも持って書いています。わたしの諸岡氏へのコメントはそうしたさまざまな文脈があってのものだということをご理解ください。軽率な市川氏にそのような慎重さはありません。
 改めていいそえますが、まだそれほど実績のないわたしの評論の態度につねに一切問題がないとは思っていません。そんなことはわたしに限らず、ありえません。市川氏の批判にも一般論として諾う部分はあります。また、諸岡氏や北海道大学の博士論文審査過程について批判する意図もまったくありません。もし本格ミステリ大賞のわたしの選考に不手際があったのなら、正式に申し出ていただきたいと思います。
 そのうえでわたしが反論したいのは、今回の市川氏の批判について、
1.選考会の席上でわたしに直接指摘せず、時間が経ってから少なからず歪曲された形でネガティヴに批判してきたこと
2.本格ミステリ大賞の候補作選考に「学術書」に関して「学術書」であることを評価のひとつの切り口にすることの疑問に対する根拠が(わたしの見る限り)まったく明示されていないこと、そして、
3.その疑念の根拠ともなっている、市川氏の「アカデミズム」の世界に対しての知識が具体的には何もなく、そればかりか、どこかで聞きかじった「ステレオタイプ」の「イメージ」しか持っていないこと、これらです。

 このような支離滅裂でひとを舐めた態度で批判を記されても、わたしとしては率直に戸惑うばかりです。市川氏からすれば、「渡邉は評論家として諸岡氏より下に位置している」とのことですが、むろん、それでまったくかまいませんし、どうでもよろしい。ちなみに、この市川氏の文章は、「この評論まがいの文章では一人称に『オレ』を採用したが、内容的には『オレ様評論』になっていないことを願いたい」と結ばれていますが、もしかしてこれは氏ならではの「叙述トリック」の一種なのでしょうか? 誰が読んでも、紛れもない「醜悪な」「オレ様評論まがい」以外の何ものでもない。しかも、市川氏はこれだけ不毛な態度でひとを罵倒しておいて、最後はこれを「評論まがい」だからと姑息な逃げの態度でかわします。この「醜悪さは、少なくとも本人に自覚してもらわないとならないと思って、オレはいまこの文章を書いている」。

 この一件で、市川尚吾の書く文章をわたしが金輪際、一切読まないことにしたのはもちろんですが、とはいえ、このような軽率で嫌味な批判が平然と掲載されるミステリ評論の世界にもこれではなんだか嫌気がさしてきてしまいます。ご存じの通り、現在のわたしの評論家としての主戦場は「映画評論」や「映画論」の世界であり、「本格ミステリ」の世界は、自分なりに好きで関わっていますが、評論家としては別にそこで天下を取ろうともあまり思っていません。「ジャンル評論家」としては確かにわたしより諸岡氏のほうがはるかに優秀なのでしょうが、わたしはそもそも評論家としてそうした方向性を目指していません。ただそれでも、予選委員のお仕事をはじめ、わたしなりに勉強して、ミステリの領域でも一生懸命対応はしているつもりです。そんなわたしのことを排除したいのなら、それでもいっこうにかまいませんが、それでは、そんなミステリ業界こそ、市川氏の妄想するようなアカデミズムに勝るとも劣らない「象牙の塔」になっているのではないでしょうか(千街氏の先のツイッターの反応を読み、おそらくそうではないと信じたいです)。
 最後に、市川尚吾氏に。再反論は特に期待していませんが、以上の点について何かあればコメントをいただきたく思います。有意義な反論だと判断すれば応答させていただきます。