「プロトコル」としての文学―文学雑記(1)


渡邉です。ご無沙汰しております。

この前気が付いたら、宇多田が海外ツアーを終えて年度末に久々にブログを更新していました。しかし、彼女はなぜあんなにクマに固執するのでしょうか…。

今月頭に少なからぬ量の原稿を生産していたせいで、何となくブログをやるのが面倒臭くなっていました(笑)。

ブログをやり始めてはみたものの、やはり僕にとって「文章を書く」という行為は、誰かしらの特定の他者(パブリックなもの)に向けて書くというのが基本にあって、こんなふうにどこに辿り着くのかもわからないモノローグめいたものをダラダラと垂れ流すというのは、どうも体質や志向に合わないようです。具体的にいえば、僕にとって文章を書くというのは、「編集者との顔の見える約束」とか、もっといえばその延長としての「稿料を貰う」という、きわめてベタな意味での「社会的」かつ「経済的」な行為な気がする。「繋がりの社会性」的なリアリティも(個人的には)非常に希薄だし。

念のためいっておくと、もちろん、ちょっと前に話題になった「フリーミアム」的なロジックも完璧に理解したうえで、個人的志向として、そうだということ、ね。

もっというと、もともと僕は10代の頃とかも、晩年の武満徹なんかが作品をある特定の個人に向けての「ギフト」として位置付けていた姿勢なんかに無前提に共鳴していたようなロマンティッシュな奴だったので(笑)、こういう反レヴィナス的(?)なツールはなんとなく想像力が働かない。

もちろん、ツィッターもいまのところやるつもりはありません(笑)。といって、突然始めるかもしれないけど。

それはさておき。

僕は、ここ最近、映画批評の分野で主に仕事を続けていて、そのへんの「擬似ドキュメンタリー」やら「映像圏」などの問題意識に関しては来週あたりに出る新原稿などでもちょっとずつ書き散らしているので、それはそれでいいのですが、前にも少し書いたように、もともと文芸批評をやっていたこともあり、小説(文学)の方面についても実は断続的に考えたりしてます。

特に、先月から今月にかけては、阿部和重の『ピストルズ』と、村上春樹の『1Q84 BOOK3』という2つの話題作が相次いで出たこともあって、いろいろと考えていました。

ちょっとフラストレーションが溜まっていることもあって、メモ代わりに文学についてつらつら書こうと思います。

基本的に僕の現代文学に対する考えというのは、当然ですが、映画論で展開中の議論とも密接に関係しています。

その断片的なアイディアは、例えば、『探偵小説のクリティカル・ターン』に収録されている辻村深月論や『ユリイカ』08年10月号の中上健次論などに示しているつもりです。

僕の現代小説に対するイメージは、そこでも書いたように、一種の「プロトコル」の集合体としてのフィクション装置――いわば虚構的な言語的規約(プロトコル)の重ね合わせによるシミュレーションメディアみたいなものです。

現代の散文的虚構(小説)のフォーマットが、「表象」(風景・内面)の仮構的投射による現実の「写生」という近代的演算(リアリズム)から、ハイパーリアルな形式化があらゆる事象を覆うリゾーム的な多数性の群れへと移行しているという認識は、おおかたの文芸批評の見立てと同じ。いうまでもなく、それはイメージの分野でいう表象の例外状態としての「映像圏」の議論と重なっています。

で、僕はそこから言語哲学プラグマティズムなどの英米系の哲学的知見を元手にして、そうした文学的シミュレーションの論理(規則性)がもっときめ細かく分析できないだろうか、ということを考えています。僕の考えでは――というか、大方の見立て通り(笑)そうしたプロトコル・フィクションとしての現代文学の可能性の射程を限界まで引き延ばしているのが、阿部氏であり村上氏であり、そして、誰よりも西尾維新という作家なわけです。時間があれば、そうした「プロトコル文学の系譜」を体系立てた、本格的な西尾維新論を書きたいという野望が、僕にはあります。というか、『U30』の伊藤亜紗さんの論考を読んで改めて思いましたが、いまの西尾さんについては、僕も一回ちゃんと長いものを書いてみたい。

で、その実験的な試行を先の辻村論や中上論ではまぁやっているわけですが、簡単にまとめれば、現代の有力な小説言語は、旧来のように現実を表象(「描写」)することを本義としていないのであれば、それはある特定のリアリティや「通りのよい」整合的認識をうまく効率的に抽出する帰結主義的(功利主義的)な記号の群れとして扱われていると考えたほうが都合がいい。例えば、その端的な事例がケータイ小説でしょう。ご存じのように、『恋空』にせよ『赤い糸』にせよ、そこで流通する言葉は、小説世界と読者(ユーザ)の日常世界との近接性(アクセシビリティ)そのものを記号的リアリティにそのまま転化しています(濱野智史さんの使う「操作ログ的リアリズム」とは、そういうものです)。そこでは言語や記号を秩序づける「差分」は、徹底的に簡略化され、そこで生じる虚構的なブランク(誤差)を補うのは、読者(ユーザ)側の日常化した「手癖」です。僕の考える現代小説のプロトコル性とは、ようはこの手癖に近い。で、現代のインターネットなどのメディアはこうした「手癖化」した読者(これをハイデガーをもじって「プラットフォーム内存在」とか呼んでもいいですが)の履歴(ログ)を数理的なデータとして変換し、集積しておけるようになった。これは、現在の文学的活動にとってきわめて画期的なことだと思います。

であれば、そうした現状をそれこそプラグマティックに観測するならば、例えば、世界内部のすべての事象を言語的規約(プロトコル命題)に還元して、きわめてフラットかつジャンクに考えようとした論理実証主義の哲学なんかはいま結構使えるんじゃね?というのが、まぁ僕の考えです。

例えば、その場合、「本格ミステリ」というジャンルは、その実験場として非常に面白い。いうまでもなく、このうえない「形式性の文学」として発展してきたミステリ小説は、同時に規則性の集合としての「ゲームの文学」でもあるから。実際、ミステリ作家の小森健太朗氏が労作『探偵小説の論理学』(南雲堂)をはじめとする一連のお仕事で、舞城王太郎西尾維新の作品を様相論理的に基礎づけるという作業をしているわけですが、僕にいわせれば、あの仕事もまた、「プロトコル化」された文学のリアリティに注目した批評の一つです。また、そうした小森さんのお仕事に目配せしている飯田一史氏による経営学的応用(クリティカルシンキング)のアイディアも興味深い。最近のお二人の議論は僕も注目しているのですが、ようはいかにカオティックな現実の相から一定の簡便な意味体系をしつらえうるか、というミッションがいま重要になってきているのではないかという気がしています。僕が不勉強ながらミステリ評論にコミットしているのは、こうした理由からです。

…話を戻すと、もちろん、とはいえ論理実証主義者のひとたちが考えていたことをそのまま持ってくることはできないですが、そこでカルナップなんかは、科学的かつ数理論理的な命題は言語的規約によって真とされるという主張(規約主義)を述べたわけだけど、そもそも近代的な認識論じたいが摩耗しつつある現代では、僕の考えではその主張はむしろ転倒して考えたほうがよくて、先にもいったように、僕たちの日常世界のさまざまな手癖(規則性)が数理的に管理・調整・分類されるシステムが完備されるようになったからこそ、そこで扱われるべき事象や記号は徹底してプロトコル(規約)の集積だとみなしたほうが効率がいい、というべきでしょう。

さらに、この言語哲学の「規約convention」というのは本来、「慣習」とも訳されるものです。しかし、これはもちろん、保守主義的な意味での慣習ではなく、いわば数理化=ディジタル化された慣習(伝統)とでも考えるべきものではないか。例えば、デリダは『エクリチュールと差異』の中で、「構造主義とは、本質的に過去についての意識だ」的なことを書いていたと思いますが(いま手元に本がないので、確認できないですが)、そこでは「過去」についての認識も通常のものとは違ってくる。もちろん、構造主義的な「過去」というのも、そうした現実的歴史(伝統)を改めて分節化するというような、二重性を帯びたものなのでしょうけれど。

なんか、そこらへんの18世紀的な(?)時間性の問題についても、吉田健一とかハイエクとかを紐解きながらいつかちゃんと考えてみたいとは思うのですが…。

とにかく、現代の文学的表象は、高度にプロトコル化、ないしは規約=慣習化している。あるいは、そうした文学を受容する私たちのテクストに対するリアリティも高度に規約=慣習化している(僕はこれを前に「規約的ハビトゥス」と呼んだことがありますw)。これが僕のおおざっぱな理解です。もちろん、これは見方を変えれば、ふた昔くらい前の文芸批評で「小説」に対する「物語」と呼ばれていた位相と類比的な主張ともいえるでしょう。実際、かつて蓮實重彦が『小説から遠く離れて』でやったように、例えば、『ピストルズ』と『1Q84』とは、驚くほどに似通った構造や主題を持っている。「60年代的なものとの接続」「家族的コミューン」「去勢された父との関係」「代弁者としての手記=小説の執筆」「超常的な能力を持った少女と父親との関係」…などなど。つまり、この二つの小説はある意味とても「凡庸」な物語です。とはいえ、こうした二つの現代小説の主題的共通性が、そうした視点から決定的に隔たっているのは、やはりそれはすでにかつてそうしたサンブラーブルな主題から一つのまとまった「物語」をモンタージュしたような、「ジャンクション」としては機能していないだろうからです。なぜなら、「物語」の背景に現れる「小説」なる物質性はもはや存在しえないからです。だとすれば、これらの主題群は、私たちの日常性が蓄積している膨大な手癖(プロトコル)の文学的表象の顕在化の一例だと見るべきだと思います。

そして、こういうプロトコル的リアリティを現在いったいなにが最も有力に析出しているかといえば、やはりそれこそツィッターをはじめとした無数のコミュニケーションツールであることも疑いを容れません。その意味で、『ピストルズ』や『1Q84』などが「コミューン的なもの」を中心的なモティーフにしていることも納得がいく。さらに、(かつての村上春樹をはじめ)『ピストルズ』や辻村深月の『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』などいくつかの話題作が「聞き書き」という体裁を採っていることも注目に値するでしょう。

そして、こうしたコミュニケーションの挙動を輻輳的かつコンパクトに示すために、現代文学が採用している舞台設定が、「教室」という表象であることも明らかです。この場合、「教室」というとすぐに宇野常寛的な文脈に接続されがちですが、僕の考えでは、「教室的世界」とは、宇野的バトルロワイヤル空間としてよりも、プロトコル=規約としての社会的コミュニケーションの胎動を効果的に見せるためにこそ要請されている。それは例えば、それこそ最近の話題のミステリ小説――綾辻行人の『Another』や両角長彦の『ラガド』などを読めば明らかです。両角氏の『ラガド』はデビュー作ゆえの粗さが目立つ小説ではありますが、その一方で、現代文学がシミュレーションとコミュニケーションの重層的な蓄積のうえに成立した言語的仮構物であることを、ポジティヴな意味での「貧しさ」で的確に描いています。さらに、綾辻氏の大作は、まさに一つの「教室」を舞台にして、そこに無数の「規則」(プロトコル)が埋め込まれ、それに則った人物たちのコミュニケーションのフィードバックが物語をドライブさせていくプロセスを描いている。僕はこの二つの作品を(ミステリとしての評価とは別に)現代小説として高く評価したいと思っていますが、それは以上の理由によります。

おそらく、ゼロ年代前半から半ばまでの現代文学が、有川浩から古川日出男まで、鎌池和馬から田中慎弥まで、「図書館」というのが時代を映し出す特権的な表象として機能していたはずですが、それはいま「教室的なもの」に代表されているという気がします。

…という感じなのですが、そのうえで、傑作『ピストルズ』に関しては、いろいろと論じたいこともあるのですが、それはちょっとおいおい何かの形で書くつもりです。