言語とイメージのパルタージュ―アート雑記(1)


渡邉です。

そういえば、先週末、日比谷でやっていたカオスラウンジ2010をちょっと覗いてきました。なかなか盛況でしたね。
実は僕は、高校の時までは美大に行きたくて、浦和にあった美術予備校に通っていたりしていたのです。ゴッホとかルドンとかミロとか超好きでしたね。中学の時はセザンヌで飯食えましたね、いやマジで。あとサム・フランシスとか(笑)。日本画では村上華岳とかがお気に入りでした。ちなみに、ヌードデッサンが超得意で、油絵は予備校の講師から「君の描くのは国吉康雄に似ているね」とか言われてました。黒歴史です。

昨秋リニューアルした根津美にも行きたい行きたいと思いつつ、まだ行けていません。。。

さて、カオスラウンジ。僕はここ最近の現代美術にはあまり詳しくないので、パーッと観ていただけですが、きわめて野心的な展覧会だったと思います。キュレーションも若干、観にくかったという以外はいい感じだったのではないでしょうか。こういうのはガンガンやってほしいですね。
個人的に趣味が合ったのは、obさんの女の子の油彩画と、一輪社さんのドローイング。よかったです。あと、伊藤存さんは普通にお気に入り。僕、何気にテキスタイルとかが本来好きで、清川あさみとかも昔から好きなんですけど、これは批評的評価云々以前に、観てて飽きないっすね。
藤城嘘とポストポッパーズや梅沢和木さんのでかい作品は、(カオスラウンジ的には、あれをバーンと打ち出したいのだろうけど)、ちょっと僕には見え透いてしまってダメでした。いや、大変な力作だと思いますけど。一輪社の作品は、きわめて記号的なつるぺたのアニメ絵の切り抜きのうえに、これまたきわめてエモーショナルな筆致でアクリルを上塗りしているのですが、背景の具象的なアニメ美少女と、上塗りされている抽象的な筆致の重なりあいが、なんかよかった。具象と抽象の葛藤というと、戦後日本美術では岡本太郎の「対極主義」とかがパッと思い浮かびますけど、あそこにあったのは岡本の基盤にあるヘーゲルバタイユ的な(反)弁証法的ニュアンスとは、全然異なる関係性ですね。その意味では戦後日本美術の美学的規範をそれ自体「上塗り」してみたような奇矯なコンセプトを感じましたけど。

で、今回のコンセプト的には「ウェブ」と「展覧会場」を接続するということなんでしょうが、これはもちろん、一方では『U30』とかの試みとリンクする。
それはそれで僕の考えていることとも近いし、完璧にわかるんですが、他方で、言語的な記号とイメージ的な記号、ディジタルとアナログのテクスト内部での関係みたいなこともちらっと考えました。
あまり考えがまとまっていないので超適当に書いていることをご承知置きいただきたいのですけども(笑)、今回の展示では、まずオブジェの脇の壁に、「作者」や「作品名」や、オブジェを構成する「キーワード」が、You Tubeとかニコニコ動画のようなウェブの動画共有サービスの「タグ」を模したデザインで記載されていました。これは、まぁいわば「タグとしての作者/作品」という感じで、『思想地図』周辺の言説を一巡していれば、よくわかるライト・モティーフになっています。つまり、キュレーター(黒瀬陽平氏・藤城嘘氏)は、この展示で、あたかもオブジェをニコ動にアップされた「動画」のように見立てている。そこでは、作品の支持体はその背後の「地」とシームレスに結び付き、「透明性」を獲得していきます。同時に、そこにはウェブのインターフェイスの体現する圧倒的な平面性、東浩紀村上隆のいう「超平面性」(スーパーフラット)のような表象性が立ち現われることとなる(梅沢さんの作品などはその典型でしょう)。ロザリンド・クラウスの論文の――そして、本展示のキュレーションを担当した黒瀬氏のブログのタイトルをもじれば、「拡張された場におけるニコ動=オブジェ」ということでしょうか。
これをとりあえずフォルマリズム以降の現代美術批評の文脈にひきつけて考えると、こうしたある種の純粋化された「抽象性」ないし「客体性」は、ポスト・グリーンバーギアンとしてのマイケル・フリードがいったモダニズムミニマリズム)の内包する、あの有名な「演劇性」に抵触しているようにも見える。というのも、「タグ」=objecthoodとしての作品は、観者とのあいだに二元論的な関係を必然的に打ち立て、オブジェの外部に流れる観者の継起的な時間性を侵入させてしまうからです。そこでは、フリードが考えるような「自律性」(瞬時性)に裏打ちされたモダンの本義は雲散霧消してしまう。…はずなのですが、おそらくそこで『思想地図』的なコンテクストがエクスキューズを発揮していて、ニコ動のようなアーキテクチャが孕んでいる「擬似同期性」(濱野智史)のような客体のもたらす特殊な時間性は、そうした観者の経験的な継起的時間感覚に新たな位相を持ちこんでくる。さらに、クレメント・グリーンバーグモダニズム絵画の内実を「平面性」(瞬時性)に仮託し、そのメディウムを問題にしたわけですが、ウェブ的な「超平面性」(スーパーフラット)は、そうしたグリーンバーグ的平面性を客体(アーキテクチャ)の機能として飽和させる形で脱臼させてしまう。まさにオブジェからの逆襲、あるいはオブジェ自身によるオブジェの復権といった感じでしょうが(笑)、そういうシステムをアナロジカルに模倣したキュレーションは、フリード的定式化へのアンチテーゼのようにも見えました。
とはいえ、グリーンバーグがいみじくも言ったように、そもそも近代的な「平面性」も、想像的な制度にすぎず、展覧会の壁といった「地」=規約(プロトコル)に置かれることによって初めて「図」(オブジェ)として現出する。その点では、今回の展示はそうしたモダンアートと、ウェブ的論理などを取り込んだポストモダンなアートとのあいだの無数のプロトコルのさまざまな拮抗関係が視覚化しているようで非常に刺激的な場であったと思います。
…で、それはそれでそういうことかなあ、として、僕がそこで思ったのは、いわば言語とイメージのディコトミーの問題です*1
例えば、先にも触れたように、今回の展示では、オブジェの作者や作品名、特徴といったいわば「確定記述」が「タグ」という形で言語化され、集約して示されているわけですが、こうしたウェブ上のさまざまなコンテンツや機能の形で現われ始めている、言語とイメージの関係性をどう捉えるか、というのは重要な問題になってきています。右に上げたのは、あるコンテンツとそれを規定・分類するアーキテクチャとの関係ですけども、例えば梅沢さんの作品に表現されているように、ニコ動をはじめとして、一つのコンテンツの中に言語とイメージが複雑に混交する作品というのも、どう美学的に整理していけばいいか、というのは結構悩ましい問いだと思います。そもそも言語芸術と視覚芸術の領域を弁別したのは、『ラオコーン』のレッシングでしたが、おそらく僕たちは「さらに新たなるラオコオンに向かって」(グリーンバーグw)歩みださなければならない。
例えば、今後電子書籍が急速に普及し、ウェブ上で作品を作り、鑑賞するという習慣が定着したとき、「小説作品」の中に通常の風景描写の箇所で、You Tubeあたりから作者のイメージにあう映像動画をコピペするといったこれまでにない所作が登場してくるとも限らない、いや、きっと登場してくるでしょう。その時に、例えば「描写」や「メディア」の意味は根本から変容するし、そのためにもこれまでの表象システムはラディカルに更新されなければならないと思っているわけですが(その試みの一つが僕の場合は「映像圏」をめぐる映画論であることはいうまでもありません)、カオスラウンジの展示で一番考えたのは実はそういうところでした。

…ということで、話を終えてしまうのもあまりにあまりですので(笑)、まだ全然まとまっていないのですが、一つの補助線を示しておこうとは思います。例えば、最近続々と邦訳が刊行されているジャック・ランシエール。僕は本当に不勉強で最近彼の本を読み始めて面白いなと思っている体たらくなのですが(フラ語もできないしね!)、ランシエールは『イメージの運命』の中で、この言語(書記的要素)とイメージ(視覚的要素)との関係性を通常のポストモダニズムとは違った文脈で考えようとしています。
どういうふうにかといいますと、ランシエールによれば、この二つの関係性は、19世紀初頭をメルクマールとして劇的に変化すると。それ以前の言語とイメージの関係性というのは、古典主義期に代表されるものでイメージの領域は基本的に言語的なものに従属し、ほかにもイメージの諸々の要素は一定の神話的かつ歴史的主題に沿ってハイアラーキカルに体系化される。これを彼は「表象的体制」と名づけます。で、そうした関係性が19世紀以降、崩れてくると。そこで現われる新しい体制――「美学的体制」とは、絵画史的には「風俗画」の台頭に象徴されるものであり、一言でいえば、表象的体制が抱えていた無数のディコトミーがおおまかなサンブラーブル(類似)のもとに合致されると論じています。これは非常に面白い議論ですよね。
例えば、『イメージの運命』でランシエールは、イメージの持つ機能を「視覚的要素とパロール的要素を結び付け、同時に切り離す諸操作」のことだと規定し、驚くべきことに、ブレッソンの映画『バルタザールどこへ行く』とフローベールの小説『ボヴァリー夫人』を同じ平面上で論じてしまいます。
つまり、ランシエールは言語なり映像なりといった諸々のメディウムを相対化し、同じ「イメージ」として純粋化=還元しているのです。このランシエールの試みは現代のテクストやオブジェをめぐる文化的条件を考えるうえできわめて示唆的だと思います。仮に「タグ」に記された言語という要素が、単なるタクシノミー的な意味以上に、何らかの「美学的」な特性を持ちうる契機を孕んでいるのだとすれば、それはこうした「イメージ」としてのサンブラーブルとディサンブラーブルの新たな関係性の彼方にあるのではないか*2
つまり、これは言い換えると、同じ一つの「形式」に無数のリアリティの差異を見出すということ――ランシエールのいうような、「感性的なもの」による分割=共有(パルタージュ)の一局面を表している、と考えることもできるかもしれません。
まあ、最近はそんなことを考えています。…ちょっとした鑑賞ノートを記すつもりが、また長々と書いてしまいました。
基本的には、僕は美術館とかは、難しいことは考えず、ボーっと愉悦に浸りたい人間です。
そういえば、美術館は去年の暮れに出光美術館に行ったきり(!)なので、近々何か行きたいですが…。

*1:ちなみに、美術史研究の文脈でいえば、W・J・T・ミッチェルの『イコノロジー』はこの問題を考えるうえで、何かと面白い。また、映画研究のフィールドだと、イメージの言語的分節機能の問題を考えた初期のクリスチャン・メッツの試みは重要だと思います。メッツがやったような構造主義的映画理論、いわゆる映画記号学の問題系は現在はあまり顧みられないですが、僕はいまでも結構注目しています。

*2:この点で、僕が面白いと思っているのが、例えば新国誠一などの「具体詩」、コンクリート・ポエトリーの運動だったりします。新国については、僕は数年前に『現代詩手帖』の具体詩特集で初めて知ったのですが、うまくいえないですけど、新国の具体詩って、2ちゃんのアスキー・アートとかにも似ているし、結構ゼロ年代のオタク的感性に近いものがあるのではないでしょうか?(笑)いま新国が生きていて、ニコ動とか見ていたら、ひょっとすると何らかのリアクションを返していたのではないかと夢想したりします。