「『イエローキッド』の言語ゲーム」後記―映画雑記(2)


渡邉です。多田富雄さんの逝去に少なからぬ衝撃を受けております。
それから、アニメ『四畳半神話大系』を観たのですが――僕は正直、深夜アニメにはとんと疎く、最近では『東のエデン』や(なぜかw)『ささめきこと』などを除くとリアルタイムで継続的に追っている作品というのはほとんどないのだけど――、なかなか面白かったと思います。なんというか、大正期くらいの日本のサイレント映画の画面を思い起こさせる(笑)。今季はこれを観るかもしれません。

…で、ずっとペンディングになっていた『早稲田文学』の真利子哲也(『イエローキッド』)論の補足をいまさらやろうとかなと思い立ったのですが、しかし、何から書くべきか、というのはいささか悩ましい。
つらつらとエピソードめいたことから始めると、僕が真利子さんの作品を知ったのは、08年の春。当時、渋谷でやっていた、とある連続公開講座のゲストで真利子さんが呼ばれて、そこで彼の初期短編――『ほぞ』『極東のマンション』『マリコ三十騎』を観たのが最初です。むろん、それまで真利子さんのことはまったく存じ上げなかったのですが、一目その作品を観て大きな衝撃を受け、上映後のフリートーク時に、ご本人とも喋りました(あちらはもう覚えていないでしょうが)。
実は当時、僕は『ユリイカ』編集部からスピルバーグ特集の原稿依頼――僕にとって初めての映画批評の原稿依頼を受けていて、いまやっていることに繋がるような、「映像圏」「擬似ドキュメンタリー」「イメージの言語ゲーム」といった僕なりのゼロ年代の映画論の構想を固めている途中だったのですが、真利子さんの作品はそのアイディアについて、非常におこがましくいえば「僕の考えている方向は間違っていないかもな…」というか、仄かな確信めいたものを与えて下さった大きな原動力の一つとなりました*1
で、その時に僕は真利子さんに、自分はいま批評を書いている、いつかきっと、真利子さんの作品についてもちゃんとした場で論じてみたい、とお伝えした覚えがあります。むろん、真利子さんは「?」というような顔をしてらっしゃいましたが(笑)、その一方的な約束が2年越しに意外な形で叶って、僕としては満足しているというわけなのです。

ついでにいえば、今回取り上げた『イエローキッド』という長編ですが、あの論文には書かなかったですけども、実はあの作品、作中の重要な箇所で無数の「鏡」が頻出する、「鏡」の映画でもあります。この切り口で切っても、かなり面白い作品論が書ける作品だと思いますので、興味と意欲のある方はぜひ(笑)。

…さて、あそこで中心的な主題として論じた、現代映画の「言語ゲーム性」の問題系ですが、読まれた方はおわかりのように、簡単に敷衍すると、ゼロ年代以降の現代映画というのは、既存の物語映画の「外部」に位置していた、複数の表象的な規則性(言語ゲーム)が記号の循環論理上に大幅に介入し、そこでこれまでにないイメージのアジャンスマンを成し遂げつつあるのではないか、ということを論じたわけです。とはいえ、『U30』で論じた松本人志の『大日本人』では「映画」と「お笑い」(演芸)、そして、『イエローキッド』では「映画」と「漫画」という主題を取り上げたせいか、そこでの僕の主張はややもすると、非常にかつての80年代的なポストモダニズムの戦略――「メディアミックス」的かつハイパージャンル的なもくろみの10年代的反復だと見做されてしまいがちなようです*2

その理解はそれでまぁたぶん間違いではないのですが、当然ながら、やはりそれは僕にいわせれば議論の過度の矮小化です。僕が本当にいいたいのはそういうことではまったくない。そのことを次回のエントリではちょっと解説してみたいと思います。
とはいえ、そのイントロめいたものを簡単に示しておきましょう。
以下の文章は、実は『U30』の松本人志論の依頼を最初に戴いた時に、僕が出した返信メールの中の一部を修正してコピペしたものです。
これを読まれると、僕の関心がいかに当初から「80年代ポストモダン的なもの」から隔たっていたかが、お分かりいただけると思います。

「…現代日本の映画を含めたサブカルチャーで「メディアミックス」の先駆というと、角川春樹の70年代の出版戦略がどうしてもよく語られます。
…しかし、僕としてはむしろ、僕たちの世代(仮にポストモダン世代と考えるとして)のメディアミックス的な文化的想像力の内実について考えるには、むしろもっと歴史的射程を広く取り、オーソドックスなジャンル/メディアの安定性や固定性が自明視されるようになった以前の文化的想像力(いわばプレモダン的想像力とでもいいましょうか)との関連においてより大きなパースペクティヴで考えたいという問題意識があります。
例えば、角川以前にも、映画との関連でいえば、佐藤卓巳の『『キング』の時代』に詳しいですが、初めて出版社としてトーキー映画製作に進出し、ラジオや広告文化との関連も見逃せない戦前から戦中のいわゆる「講談社文化」があります。
また、(僕は明治・大正の日本映画史が専門なのですが)初期日本映画史(と出版文化)からの視点では、もっと重要なのは、明治末期から大正期にかけて一世を風靡した「立川文庫」です。これは、講談師が語る講談をテクスト化したいわゆる「書き講談」の一つで(これが先の講談社文化につながることはいうまでもありません)、豪傑児雷也や猿飛佐助といったキャラクターを主人公にした簡易な読み物です。いうまでもなく、いまのキャラクター小説、ライトノベルの元祖ですね(ここでも角川と繋がる)。
そして、当時、黎明期の映画界では日本最初の映画監督である牧野省三と、日本映画最初の時代劇スター尾上松之助の映画スタッフは、まさに立川文庫の物語の枠組みやキャラクター設定を元にして、多くの映画を作っていきました。
そして、そうして作られた時代劇が、演劇と映画との関係で当時作られていた「旧劇」と呼ばれていたものを、日本映画の重要な一ジャンルとして近代的に自立化させた「チャンバラ映画」というフォーマットを作っていく大きな流れがある。
ここには、1910年代の日本に成立しつつあった最初の大衆消費文化、都市文化の中で、演劇・映画・小説(書き講談)・雑誌…あるいは、いまのロスジェネ的な労働運動や政治運動まで含めて、さまざまなジャンルの流入と分離がダイナミックに行われていたわけです。
僕は日本の20世紀の文化史として見た場合、メディアミックスを論じるならば、70年代の角川よりも、こちらの10年代の立川文庫/チャンバラ映画ブームのほうをはるかに重要視すべきであり、その文脈をと取り込まないと、ちょっと表層的な議論になってしまうのではないか、という感じがあります。
むしろ、70年代角川的なものに始まるメディアミックス的想像力は、10年代頃までにまだ未分化な可能性を多く秘めたまま、文字通りジャンルをジェネレート(生成)していた多様なポップカルチャーの想像力の復活(もちろん単純な再来ではないですが)としてとらえるべきではないか、と。
いかがでしょうか。

…僕の中でいま大きな関心を占めているのが、90年代から最近のテレビバラエティ(お笑い番組)です。現代の映画的想像力の全体性とその編成について考える場合、これは外せないと思っています。例えば、その一部はアダルトヴィデオとともに「疑似ドキュメンタリー問題」のアップデート版としてとりあえず提起しておきました。
しかし、僕がいま注目しているのは、『アメトーーク』や『人志松本のすべらない話』といった、予算不足のテレビ業界の事情を反映させた貧しい構造(スタジオセット)の中で繰り広げられる芸人たちのトーク(話芸)の妙に特化した番組です。
…これらがどういうふうに映画的想像力と結び付くかというと、(まだアイディア止まりですが)簡単にいえば、トーキー以前のサイレント映画の世界では、映画作品やそこに出演する俳優以上に、「弁士」の存在と彼らの話芸が絶対的な映画の価値基準だったわけですね。つまり、そこには「映画的なもの」と「演芸的なもの」とのメディアミックスがある。そして、弁士の多くがその出自としていた講談師の文化との関連では、それはいまの大衆文学的な想像力とも確実に繋がるわけです。そうした想像力のフォーマットがこれもいま、改めて違った形で、新しいインフラを駆使しながら再来している気がします。
その意味で、僕は、来月待望の新作が公開される松本人志はやはり「映画史的」に、かつ「メディアミックス論的に」ちゃんと論じるべき作家だと思っているのですが。」

これは、ありふれた見取り図にすぎないといえばいえます*3。いずれにしろ、僕の立場では、現代映画の持つ特異な言語ゲーム性は、まず第一に、80年代的メディアミックスよりも、明治40年代前後の(つまり純映画劇運動以前の)近代的な物語映画以前の複製視覚メディア文化が孕んでいた可能的様態(オルタナティヴな偶有性)に注目したほうがはるかに生産的です。また、文字通りの意味で「ゼロ年代」「10年代」的でもある。
僕たちは、もっとロバストな視点から現代映画の持つ可能性を再検討してみる必要がある。僕がやりたいのは、その試みのための一つのガイダンスです。

では、またそのうち。ご拝読ありがとうございます。

*1:当該のスピルバーグ論(異様に長いw)の註釈にも真利子さんのお名前を出しています。おそらく、日本の批評誌に真利子さんのお名前を挙げた最も初期の事例ではないかと思います。

*2:とはいえ、一方で『U30』からの最初のご依頼をいただいた時に、そういう文脈を提示されたりもしましたが。ちなみに、『U30』の編集を一手に担った早稲田文学編集部の窪木さんは、(同世代ということもありますが)僕にとって最も刺激的な編集者です。

*3:そして、いま読むと、あまりに粗雑な認識と整理!映画研究者のみなさん、つっこみはご容赦願います…。