研究報告会@テーマ研究「日本映画、その史的社会的諸相の研究」2012年度(もう終わったけど)


渡邉大輔です。
昨日(7月21日)、早稲田大学にて下記の研究発表を行いました。2009年から参加している、早稲田大学演劇博物館演劇映像学連携研究拠点の研究報告会です。もう終了しましたが(笑)、いちおう備忘録も兼ねてエントリに残します。

テーマ研究「日本映画、その史的社会的諸相の研究」
2012年度第2回研究報告会

演劇映像学連携研究拠点テーマ研究「日本映画、その史的社会的諸相の研究」(研究代表者:岩本憲児)が主催する公開研究会が、下記の通り開催されます。どなたでも自由に参加できます。

◆「漫画映画・合作映画・色彩映画 : 占領下とその後」

◆日時 : 7月21日(土) 13:30−18:00 (13:00開場)
◆会場 : 早稲田大学早稲田キャンパス 8号館404教室
◆概要
13:30-14:30  
渡邊大輔  (日本大学芸術学部 非常勤講師) 
「占領期における漫画映画の上映と観客の実態」
本発表では、1945年の第二次大戦終結から日本が独立する52年まで――すなわちGHQによる占領統治下――アニメーション(漫画映画)の興行/上映の実態と当時の観客の反応について検討する。日本の漫画映画は、それ以前の戦中期から映画法による文化映画の強制上映措置などに伴い、比較的活発に製作が行われており、したがって、終戦直後の占領期においても政岡憲三や大藤信郎といった先駆的な製作者たちが精力的に創作活動を行っていた。しかし、一部の作品を除いては、それらの作品群は一般的な劇場で公開されることは次第に難しくなり、1950年前後を中心に起きた「映画教室運動」、それに伴う視聴覚教育の現場へと上映の場を 移していったように思われる。当時の状況を資料や言説から整理し、概観する。

14:40-15:30
イラン・グエン Ilan NGUYEN(東京芸術大学 大学院 非常勤講師)
「国際情勢から見た日本語の<アニメーション>と<アニメーショ ン作家>の流用について:大藤信郎から久里洋二への軌跡を中心に」
1950年代からフランス語圏・ 英語圏において定着した「Animation」という用語が日本において「アニメーション」、または「アニメーション作家」として流用されるようになった経緯は 明らかにされていない中、国内のその最も早い事例のいくつかを取り上げ、大藤信郎(1900-1961)、久里洋二(1928-)らの活躍と海外との関 わりを中心に、その関連で日本とフランスで発掘された資料を紹介しつつ考察する。

15:50-16:50
志村三代子 (早稲田大学演劇博物館 招聘研究員)
「ハリウッドから見た占領期の〈日本〉 :米国公文書館所蔵の対日関係資料を事例として」
1951年に公開された『東京ファイル212』は、日米合作映画第一号といわれているが、封切当時の批評が芳しくなく、また日米双方の製作会社が無名に近かったために、従来の映画史ではほとんど注目されることはなかった。だが、この作品が興味深いのは、製作を担ったブレイクストンプロが日本での撮影を実現させるために国防省に申請したシナリオの第一稿がワシントンD.Cの国立公文書館に保管されており、その第一稿のシナリオと実際の映画作品にかなりの差異が見られる点である。発表では、シナリオの第一稿と『映画評論』に掲載された日本語のシナリオ、そして映画『東京ファイル212』と日米両方の批評を比較しながら、アメリカから見た「占領下の日本」におけるイメージの特徴について考えていきたい。

17:00−18:00
岡田秀則東京国立近代美術館フィルムセンター 主任研究員)
「日本の色彩映画―<1953年>を検証する」
1953年の秋は、東宝が『花の中の娘たち』でただ一度だけ初代フジカラーに挑み、大映イーストマンカラーの『地獄門』に社運を賭け、そして東映が初期コニカラーによる『日輪』を世に問うた、日本映画にとって色彩映画システム導入の分水嶺となった時期である。翌年に撮影所の開所を迎える日活の動きも含め、この<1953年>のカラー映画事情をたどる。

発表後、ミツヨ・ワダ・マルシアーノ先生、土田環先生、アーロン・ジェロー先生、佐野明子先生に、貴重なコメントを戴きました。