研究発表@日本映像学会第38回全国大会


渡邉大輔です。
このブログ、備忘録としても使っているので書いておきますが(いちいち書いておかないと、業績調書など作るときに忘れるのです)、6月2・3日と、九州大学大橋キャンパスで開かれた、日本映像学会第38回全国大会で口頭発表やってきました。

・研究発表「占領期日本アニメ(漫画映画)に見る社会的・文化的反映」(日本映像学会第38回全国大会、於・九州大学大橋キャンパス)
以下は発表概要。

日本映像学会第38回全国大会研究発表概要
「占領期日本アニメ(漫画映画)に見る社会的・文化的反映」

日本製のアニメーション(漫画映画)は、近年、コンテンツ政策や数多のサブカルチャーとのメディアミックス的生産/消費により、国内外で日増しに注目を集めている。とはいえ、しばしば指摘されるように、そうした日本アニメの歴史や実態は、主に一九六〇年代以降の作品群に限られ、それ以前のものに関しては、まだ充分な研究が進んでいるとは言い難い。しかし、日本におけるアニメ製作・受容は、遅くとも一九一〇年代半ば頃には始まるとされる。本発表で総称する「漫画映画」とは、そうした時に「線画」「描画」「漫画」など複数の名称でも呼ばれた、戦前・戦中・占領期頃までの日本製アニメを指して用いる。
 この時期の漫画映画は、いわゆる文化映画などとともに、その興行形態や製作スタイルなどの点において、日本映画産業・興行の両面において、以後の歴史とはきわめて異なる独特の位置を占め続けていた。とりわけ戦前から戦後を通じて漫画映画は、いわゆる教育映画(教材映画)など、一般の映画館での娯楽的興行とは一線を画す社会教育・学校教育の観点から製作・上映された作品群と密接な関係を保ってきたことが知られている。例えば、日本アニメの黎明期に活躍したアニメーターの一人で教育映画製作にも携わった北山清太郎が戦前に、「線画といふものは要するに印象的に、物を強く、深く、さうして非常に単純に掴むといふことがその使命である。つまり私の言ふのは統計とか、或は物を一寸風刺するとかいふ場合を言ふのです。漫画ぢやないのです。応用線画です」(「線映画の作り方」、全日本活映教育研究会編『映画教育の基礎知識』、1930年所収)と的確に記したように、アニメーション技術は実写よりも観客に伝えたい事象やメッセージを正確かつわかりやすく表現しやすく、それゆえに特定のイデオロギーや啓蒙的メッセージを陰に陽に伝達する教育映画との関わりが深かったと言えるだろう。
 そうした日本アニメの本来的特性は、おそらく日本社会において日中戦争・太平洋戦争の敗北とアメリカによる占領によりイデオロギーが劇的に変化した戦後直後に製作された一連の作品の表象にも顕著に認められるように思われる。例えば、かつて胡智於が論じたように(「『誰に向けてのアニメーションか』」、岩本憲児編『占領下の映画 解放と検閲』、2009年所収)、正岡憲三の『桜』(1946年)や熊川正雄の『魔法のペン』(1946年)などの物語やイメージには、当時の日本とアメリカの関係性や戦後民主主義イデオロギーが直接・間接に表出していたと考えられる。
 本発表では、こうした一連の先行研究を踏まえつつ、占領期(戦後直後)にいたる日本アニメ(漫画映画、線画)の独特の歴史や表象空間の特性を整理し、そのうえで、こうした占領期に製作されたいくつかの日本アニメが示していたと思われる特殊な社会的・文化的表象とその時代背景との関係を考えたい。
 おそらくその点で本発表が最も注目するのは、先ほどの熊川の『魔法のペン』と、その翌年に丸山章治が東宝動画第一回作品として製作した一種の教育映画『ムクの木の話』(1947年)である。この二作の日本アニメには、明らかに大戦中の全体主義的国家体制への批判と、解放後の明るい民主主義的体制への期待の対比、さらに、そこにいたる日本文化の特殊な歴史的体質や、占領国・アメリカに対する複雑な眼差しなどが見え隠れしている。例えば、『ムクの木の話』は虫や小鳥が楽しく遊んでいたムクの大木がある山々に巨大な氷魔(冬将軍)が襲来し、すべてを凍りつかせてしまうが、やがて太陽の暖かい光が差し込み、再びもとの美しい春に帰る、というイソップ寓話を題材にした短編だが、そこには明らかに戦前の全体主義の大衆に対する暴圧とそれからの民主化による解放のイメージが寓意的に重ねられている(太陽は字幕で「自由の光」と譬えられている)。しかし、興味深いのは、そうした「敗戦」とそこからの解放(イデオロギー的転換)のイメージが、いわば「自然的」な受動的ありようでなされていることではないだろうか。それは、かたや『魔法のペン』が主人公の少年がこれもまたたまたま拾った西洋人形(=アメリカ的なものの象徴)と「魔法のペン」によって、理想的な戦後の都市社会を夢のように実現してみせるのとパラレルであるように思える。すなわち、そこには、かつて丸山眞男らが指摘したような日本文化(や戦前の「超国家主義」)が一様に示していた独特の「自然過程」が露呈していたのではないか。
 本発表では、以上のような視点から、戦中期の日本アニメ、あるいは大藤信郎『蜘蛛の糸』のようなそれと同時期の作品との比較を適宜織り交ぜながら、占領期日本アニメの特徴について概観的に検討してみたい。

学会では、洞ヶ瀬真人さん、鷲谷花さん(2日)、木原圭翔さん、大久保遼さん、大久保清朗さん、張愉さん(3日)の口頭発表を聞きました。