山下敦弘フィルモグラフィー@『ユリイカ』


ブログではご無沙汰しています。渡邉大輔です。
27日発売の『ユリイカ』6月号の山下敦弘特集で、巻末フィルモグラフィを担当しています。『ユリイカ』ではイーストウッド特集、タランティーノ特集(09年)、ポン・ジュノ特集(10年)に続いてのフィルモグラフィ担当で、編集長の山本さんには大変お世話になっております。今回は、僕のブログではもはやお馴染み、SF・文芸評論家の藤田直哉さんのお誘いで、同じく限界小説研究会のメンバーであり気鋭のSF評論家・翻訳家の海老原豊さんとの共同執筆の形で書かせていただきました。

・「山下敦弘フィルモグラフィー」(海老原豊氏・藤田直哉氏との共同執筆)(『ユリイカ』6月号、青土社

今回もといいますか、実に原稿用紙にして70枚(!)近いガチで気合いの入ったフィルモグラフィになってしまったので(笑)、楽しんで読んでいただければうれしいです。また、山下監督の新作『マイ・バック・ページ』のほうもよろしく!
振り返ってみると、『ユリイカ』で日本の映画監督の特集が組まれたのは、おそらく06年の監督系女子特集以来だと思うので、実に5年ぶり!山本さんには、ぜひとも現代日本映画界をもっと特集してほしいと思っています。その中でも、今回は長らく『ユリイカ』で絶対に特集すべきだと思っていた(山本さんにも言ったような気がする)山下敦弘監督が特集されたということで――さらに、そこに微力ながら寄稿できたということで個人的にはとてもうれしい。
とはいえ、目次の顔ぶれや内容をパラパラ見ていると、今回は「映画」というよりは「サブカル」という文脈で設定されているように思えます。実際、僕も今回は(いい意味での)「ライターノリ」でわりと軽く読めるようなスタイルの文章を書いています。そもそも映画関係の書き手があまりいない*1。そもそも『ユリイカ』という雑誌は、映画批評の雑誌文化が軒並み崩壊している昨今の商業媒体中で、『キネマ旬報』『nobady』や『映画芸術』などと並んで数少ない知的テンションの高い――それも僕のような若い書き手の――批評を掲載してくれる雑誌ですが、それも『東京から』にまとめられた蓮實重彦先生と黒沢清監督の対談が終了して以降、ひとつの時代の節目を迎えているような気がします。そういえば、09年に僕が三浦哲哉さんや月永理絵さんとフィルモグラフィを担当したイーストウッド特集ももはやイーストウッドの特集としては、「ミネルヴァの梟」を感じさせるような、異様に濃密な内容でした(笑)。
そういう文脈で見ると、今回の山下特集もどこか映画批評のひとつの転換点を感じさせるような誌面になっているような気がします。事実、よくも悪くも、今回は「映画批評誌」として見た場合、どうも成功しているようには思えない。どこか焦点が定まっていないような雰囲気がするのです。多くの論考は、特集の問題点を『マイ・バック・ページ』を介して新左翼を含めた現代史一般の問題へと明らかにずらしている。それは、おそらく山下監督のような新世代の映画作家を論じる有効な批評機軸がうまく設定されていないからではないか。ぶっちゃけて言ってしまうと、今回の特集は僕のような批評の書き手よりも、対談や、宮沢章夫さん、松井周さんのような自らも作り手である方々の論考のほうがはるかに面白い。
誰の目にも明らかでしょうが、山下さんの仕事は、もはや既存の(シネフィル主義的な、とひとまずいっておきますが)映画批評の枠組みでは語れない。その時に、やはり僕たちは、これまでにはない、新しい映画批評のことばを生み出さなくてはいけない。いうまでもないでしょうが、いま僕が早稲田文学でやっている映像文化論の連載は、そういう批評的=危機的(クリティカル)な問題意識に応えるために書いているものです。
例えば、今回の特集で映画(Vシネ)評論家の谷岡雅樹氏は石井裕也監督をはじめとした現代の若手作家や日本の映画界にかなり辛辣な批判を浴びせていますが、ではその先のどのようなポジティヴな「対案」があるのか。あるいは、真魚八重子さんの論考は、山下さんの短編作品を論じていますが、僕の考えでは(フィルモグラフィにも書いたように)、あれらのフィルムは擬似ドキュメンタリーやV&R系のAVといったキーワードの現代的な文脈を踏まえない限り、深くは理解できないもので*2、そこらへんがうまく踏まえられていなかったのが個人的には何とも残念でした。
まぁ、ともかく、僕が谷岡さんや真魚さんたちに「ないものねだり」をしても仕方がないので、僕は僕で粛々と、自分のヴィジョンを示していくしかない。とりあえず「じゃあ、お前はそこのところどうなんだ」と言われれば、おそらく来月上旬には公開されるだろう、早稲田文学連載の第4回で簡単に示していますので、そちらをお読みいただければと思います。

ついでに書いておくと、最近のワセブン連載を中心とした僕の仕事は、『ユリイカ』の10年代文化特集の原稿にせよ『ゼロ年代+の映画』のエッセイにせよ、「状況論」や「構造分析」のテクストが多くなっていて、「堅実な作品論や作家論を書かない」という批判が来るような気がするのですが(笑)、僕にいわせれば、どう見てもある種の「地盤沈下」とディスコミュニケーションを起こしているいまの映画批評や映像論の文脈である程度巨視的な交通整理やプラットフォームを作るやつがいなければならないという前述の問題意識に基づいているわけです。『ユリイカ』のタランティーノ論やポン・ジュノ論、flowerwildの各論考――あるいはそれこそ昔の文芸批評の仕事――をご覧になっていただければ分かると思いますが、僕もゴリゴリした作品論は定期的にちゃんとやっています。ただ、その作品論(テクスト分析)の方法論にせよ、いまの「イメージの進行形」(これは連載終了後、何かの形でまとめる予定ですが)で考えているような文化論・社会反映論的視点を踏まえることで、また違ったものになるはずだし、そうしなければならないと思っている。簡単にいえば、いつか加藤幹郎先生の『『ブレードランナー』論序説』のような書物を書ければ理想なのですが…。
…という感じで、明日から週末にかけて日本映像学会の研究発表のために札幌に出張してきます。
それでは、また。

*1:ちなみに、僕も肩書きは今回「文芸批評」になっている(笑)。

*2:山下さんもいくつものインタビューで証言しているし。