擬似ドキュメンタリーのタクシノミー―映画雑記(1)


渡邉です。

先月発売された新雑誌『早稲田文学増刊 wasebunU30』に書いた原稿(「世界は密室=映画でできている」)もそうなのですが、ここ2年ほどの僕は、主に映画評論の分野で仕事をすることが多くなっています(もちろん、これは今後映画批評家としてやっていくということではありません。もともと物書きとしては文芸批評でデビューしたし、いまも定期的に新作小説はチェックしています)。現代の映画(映像)文化や映画批評という制度に対する僕の主張というのは、先の『U30』の論文も含め、『ユリイカ』08年7月号のスピルバーグ論、昨夏に刊行した限界小説研究会編の評論集『社会は存在しない』(南雲堂)に収録されたゼロ年代日本映画論などに、おそらく併せて2、300枚ほどは書き散らしていると思うのですが、『U30』の論文に対する反応などを仄聞する限り、僕の主張の意図が十分に伝わっていない面があるようです。そこで、このブログを通じて、僕の展開中の議論を折々、徒然に書いていこうかと思います。

とりあえずまとめてみると、僕が映画批評の分野でいまやりたいのは、「ポストモダン化による『映画的なもの』(映像=複製イメージ)をめぐるシステムと文化的想像力の構造的変容」の問題とでも要約できるものだと思います。ようは、90年代後半以降、ゼロ年代を通じ、ここ十年ほどに台頭してきた文化、社会の変化やそれに伴う記号に対するリアリティの変化というのは、私たちの映像文化に対する感性をラディカルに変容させてきたし、実際、そうした変容を反映した兆候的なテクストも現われ始めている。その具体的な内実に関しては、僕の論考を参照していただきたいのですが、何にせよ、そうした大域的な変化に対して、日本の映画批評の言葉というのはいまだにうまくチューニングできていないのではないか。僕の映画批評の一連の仕事は、そうした危機意識から始まっています。

もちろん、こうした現代映画に対する批評的な検証は、すでにあちこちで始まっているともいえるでしょう。大学システムの再編の中での映像文化をめぐる教育施策も積極的に行われているし、インターネットや携帯電話といったいわゆる「アーキテクチャ」の浸透に伴ってここ数年新たに生まれてきた「ウェブ・シネマ」や「ケータイ映画」(ケータイの動画機能で撮影された「映画」)などの新たなジャンルに対する興味深い試みや考察も増えている。紀要などをつらつら見ていると、アカデミックな映画研究内部でも結構アクチュアルな問題意識を持った論文も書かれ始めていますね。しかし、それは僕はあくまで「映画界」「映画批評業界」というタコツボ的なコミュニティの中でのトピックに過ぎず、また多くは既存のイベントや批評言説の微修正にしかなっていないというのが、残念ながら実情ではないか。

こうした僕の見方にはおそらく多くの反発もあるでしょうし、実際、それは僕の無知に帰する部分も多分にあると思います。とはいえ、世代的な問題に絡めていっておけば、実際、僕の世代(80年代生まれ)の文化的に先鋭なひとたちというのは、一様に映画に対して冷淡というか、積極的な関心を持っていないというのは、僕の実感として強烈にあるのもまた事実です。これは22、3歳の時に批評家として仕事をするようになってから、同世代の若い書き手と話をする中でもつねに感じてきた率直な印象でもあります。

端的にいってしまえば、これは一方でゼロ年代の若い世代の文化批評に圧倒的な影響力を保持してきた東浩紀さんの仕事が総じて映画というジャンルに対してはそれほど言及することがなく、また他方で映画批評の側でも、ジャンル批評のみならず東さん同様広く文化批評一般に大きな影響を及ぼしていた蓮實重彦氏の仕事が90年代半ばくらいから若い世代に一気にリアリティを失ってしまったという理由があるでしょう。そして、蓮實氏や梅本洋一氏などの80〜90年代の先鋭的な仕事の数々は、主にかつてのシネフィル世代のあいだだけで「純粋培養」され、例えばアテネフランセ日仏学院の周りに細々と生き残っている……ずいぶんと乱暴なまとめだとも思いますが、それがひとつの事実だとも思います。何より、いまだに蓮實氏の仕事がアクチュアルに見え、また映画批評家たちの仕事の中に大きな「抑圧」として機能していることがそれを如実に物語っているのではないか。

そして、それとは対照的に、東さんを中心とした先端的なゼロ年代文化批評の話題というのは、ご承知の通り、オタク系をはじめとするサブカルチャー評論とCGMをはじめとするウェブカルチャー研究の二つの方向に特化したことにより、日本の若い世代の書き手や読者の記号に対する感性や語り口をドラスティックに変えてしまいました。おそらくこの変化は根源的なものですが、それゆえに不可逆的でもありますが、だからこそ現代日本の文化批評において映画というジャンルはいわば一種の「悪い場所」に追い込まれてしまったというのが、ゼロ年代ライトノベルセカイ系についての評論やレビューをちょこちょこと書きながら同時代の映画をシコシコと観てきた僕の偽りない実感です。そして、『社会は存在しない』の論文でもその一部をご紹介したように*1ゼロ年代の「映画批評的」に優れた日本映画もまた、いわゆる「ゼロ年代批評的」な枠組みで十分に評価できる作品が数多くあったわけです。いわば「蓮實的なもの」と「東的なもの」とがすれ違い続けた不毛な時代、それがゼロ年代というディケイドのもう一つの顔だったのではないでしょうか。というか、10代の頃から両者の愛読者だった僕は、いま痛切にそう思います。

僕の狙いはいまからでもそうした作品を「正当」に評価できる一定の構造的汎用性を伴った分析のコーパスを作ること。それに尽きています。蓮實氏の「映像の理論から理論の映像へ」(『映画の神話学』所収)のあまりに感動的な一節をもじるとするなら、「佐藤友哉に熱い興奮を禁じえない一つの魂が同時に真利子哲也にも涙してしまうという現実、それは……まさに文化の記号学的論理の、意味されるものを越えた普遍性を証拠だてるものでしかない」、といえるでしょう。

ゼロ年代的な想像力とそこで培われてきた言説を、蓮實以降の映画批評の豊饒な蓄積にいかに接続するか」――まあ、簡単にいってしまえば、これが僕の主に考えていることです。そのためには、結構アクロバティックなこともやり始めているところなのですが、その作業のために僕がずっと注目しているのが、いわゆる「擬似ドキュメンタリー」(モキュメンタリー)というジャンルです。これは文字通り、ドキュメンタリー映像の範例的な映像表現を擬似的に摸して作られた一群のフィクション作品群のことです。擬似ドキュメンタリーの系列は、イタリア製のモンド・ムーヴィーなど、ポストモダンエクスプロイテーション・シネマの人気ジャンルとして一般には知られていますが、よく知られているように、99年公開の『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の大ヒット以降、俄然その存在感を増しました。同時期の9・11以降、急増したテレビ界での「リアリティ・ショー」の流行などもその一端に組み入れることができると思います。

最近の映画批評の中だと、擬似ドキュメンタリーを取り上げた言説で印象的なのは、僕にとっては、何といっても、阿部和重氏の批評でした。しかし、阿部氏の批評はこの擬似ドキュメンタリーの手法を、あてがいぶちの「リアリティ」の形式を安易に仮構するものとして、どちらかといえば否定的に言及されていたような記憶があります。
しかし、僕はむしろ、ゼロ年代以降、映像のセキュリティ化やもモバイル化といった新規な事態により映像が表象するリアリティの審級が流動化し、高度に多層化した現状を反映するスタイルとして積極的に評価すべきではないか、と考えました。詳細は、『社会は存在しない』や『U30』の論文に書きましたが、実際、擬似ドキュメンタリー的手法を使い、擬似ドキュメンタリー的感性の浸透を自覚的に反映させているような興味深いテクストがここ数年現われ始めている。山下敦弘監督の『不詳の人』やJ・J・エイブラムス製作、マット・リーヴス監督の『クローバーフィールド』、ブライアン・デ・パルマ監督の『リダクテッド』などはその代表格でしょう。擬似ドキュメンタリーについての考察は、僕の一連の映画論の中核をなすとともに、現代映画の表象空間を考えるうえでも、非常に重要なヒントとなることはおそらく間違いありません。

そして、中でも今年は『フォース・カインド』と『パラノーマル・アクティビティ』という2本の擬似ドキュメンタリー映画が公開され、評判を呼んだことでこのジャンルの隆盛の一つのピークとなったのではないかと思います。
とはいえ、正直、作品的な評価としては、僕はどちらも実はそんなに評価していません。とりわけ、『パラノーマル・アクティビティ』は前評判が相当高かっただけに、予想していたとはいえ、そのあまりのくだらなさには憤りすら覚えました(笑)。
そうはいうものの、やはりこれらの立て続けに公開された作品が興味深かったのは、擬似ドキュメンタリーという表現が持ちうる多様な可能性を対照的なスタイルで、その幅として示してくれたことだと思います。
例えば、一方の『パラノーマル・アクティビティ』はご存じの方も多いと思いますが、二人の男女が住む家に毎夜奇妙な現象が起こることがきっかけで、彼らがハンディキャメラを寝室にセットして、室内を監視する物語。また、もう一方の『フォース・カインド』は、いわば「記録映像(を騙った擬似ドキュメンタリー)とその再現映像」から構成された擬似ドキュメンタリーで、実娘を異星人に攫われた(フォース・カインド)と主張する女性心理学者の物語です。

一発でわかるように、この二つのフィルムは同じ擬似ドキュメンタリーでありながら、まったく対照的な構造を持っていることです。『パラノーマル・アクティビティ』は、フィルムの構成するキャメラの数(リアリティの審級)がつねに一つであり、決して短くはないこの作品をすべて同一のPOVショットが構成している。対して、『フォース・カインド』のほうは、現実に撮影されたとされる超常現象のファウンド・フッテージ、実在する(とされる)女性学者と映画の実際の監督の対話によるテレビ討論の断片画像、そして、ミラ・ジョヴィビッチ演じる再現ドラマのシークエンスと、それを演じたミラによるナレーション案内の映像……といういくつものリアリティのレイヤーを持ったイメージがそれぞれが複雑に入れ子構造を構成するようにして次々と現れてきます。この『フォース・カインド』の複雑さは、『パラノーマル・アクティヴィティ』の剥き出しの「単純さ」に比較するといっそう鮮明です。僕は、この二つをほぼ同時期に立て続けに観たので、その印象はよけい強かったかもしれません。

おそらく俯瞰的に問題を考えた場合、注意すべきなのは、『フォース・カインド』の複雑な構造を持って『パラノーマル・アクティビティ』のミザンセンの単純さを非難するのではなく、むしろ擬似ドキュメンタリーというジャンルの情報処理のスタイルがここ数年のあいだに急速かつ高度に多様化したこと、すなわち、擬似ドキュメンタリーの一種のタクシノミー(分類学)すら可能になっていることが、僕の考えるいま到来しつつあると思われる新しい映像のリアリティ――「映像圏」の兆候的な現象ではないかと考えることだと思います。というのも、この二つのフィルムの対称性は放恣にそうなっているのではなく、互いが互いを示差的に構造化しているような関係になっていると思うからです。『パラノーマル・アクティビティ』のイメージの「求心性」と、『フォース・カインド』のそれの「拡散性」はその典型ですが、それは実際、物語の主題ともぴったり連動している。例えば、『パラノーマル』の物語はヒロインの女性に憑依していると思われる霊的な存在が話の中心ですが、それはイメージの単一性とは反対に、室内に気配が遍在する「拡散的」な存在として描かれている。他方、『フォース・カインド』の異星人は天空からの未確認物体として目視されたり、カウンセリングの瞬間だけに存在を示すという点で、多分に「求心的」な存在でした。そして、何よりも、リアリティのシミュレーション化=多層化を形式的に表現するようなこの擬似ドキュメンタリーという手法で扱われるのが、「霊(悪魔)」や「宇宙人」といったハリウッド映画において何とも旧弊でありふれたモティーフなのも、また擬似ドキュメンタリーの映像をよりシニカルに際立たせる効果を持っていた。
何にせよ、こうした擬似ドキュメンタリーの複数の連合関係は、それが単体の作品ごとに観られ評価されるというよりも、こう言ってよければ、それらの総体が一種の「言語ゲーム」を形成しているためだといっていいでしょう。いいかえれば、だからこそ、現代において擬似ドキュメンタリーとは単なる表現スタイルではなく、現代人のイメージに対するリアリティのデフォルトをシームレスに体現した構造的なシステムとして扱いうる装置だと見做せるはずです。僕たちは、擬似ドキュメンタリーをもはや手法ではなく、あらゆる現代映画一般が共有する表象モデルの規則性(メタレヴェル)を「可視化」(オブジェクト化)してみせた、いわば「クラインの壺」のような存在として認識しなければならない。
僕がここ数年、ハリウッド映画からテレビバラエティ、果てはAVまで(笑)、擬似ドキュメンタリーに一貫して注目し、論考に書き散らしているのは、そうした理由からです。

いずれにせよ、少なくとも映画批評の分野に関しては(文芸批評の分野ではそれはそれでまたやりたいことがあり、その話もおいおい書くかもしれませんが)、ゼロ年代の批評が取りこぼした多くのポテンシャルが肥沃な土地として残っている。僕はそこからなるべくいくつもの大きな文脈にアクセスし、またそれをフィードバックさせながら、その枠組みに見合う作品をバックアップしていきたいと考えています。また、それと並行して、できるなら、実作者の方の活動ともからめつつ、面白いことがやれたらと思います。
まあ、僕は今年はいろいろと忙しいので、その目標がどこまで現実化するかはわかりませんけど……。

とりあえず、もうすぐ『U30』の論文の「延長戦」的な意味合いのテクストを脱稿するので、そちらもぜひご覧いただければと思います。
乱文失礼しました。ご拝読に感謝します。続きはまたそのうち(?)

*1:ちなみに、あの論文で僕が相米慎二岩井俊二を比較分析したことに対して、少なからず疑問の声を戴きました。しかし、あえて弁明させてもらうなら、あれはむしろ現在の映画批評のフォーマットに対する僕なりのパフォーマティヴな異議申し立てというか、相対化の「身振り」として読んでもらうほうがいいかもしれません。ここで書いておけば、あれはあくまで相米と岩井のフィルムの「構造的」な比較を行ったもので、それぞれのフィルムの美学的な判断については当然ながらまた別の話です。