連載「イメージの進行形」最終回〔中篇〕@Wasebun on Web


渡邉大輔です。
昨日は、今年度の大学の授業の最終日でした。最後の授業も、ジェイン・マクゴニガルあたりの最近の「ゲーミフィケーション」の話題を紹介しつつ、それをちょうど100年前の同じアメリカで勃興したプラグマティックな一連の映画教育運動(ジョン・デューイらがシカゴ大学で行なっていた「新教育」)の理念と照らし合わせ、その相同性(例えば「現実世界」に対するアプローチなど)を示しつつ、両者を文化史的に相対化してみる、というようなことをざっくりとやりました。おそらくこんな映画の講義をやっているのは、日本で僕くらいのものでしょう…(笑)。いったい、学生のみなさんはどこまでついてきてくれているのでしょうか。
とはいえ、授業の最後に文芸学科の女子学生がひとり、面白かったと声をかけてくれて、この一年の諸々の苦労も氷解するような気がしました。

さて、昨年末にアップした、長篇連載「イメージの進行形」最終回(第6回)の続きがまた公開されました。

・連載「イメージの進行形/第6回 映像圏の「公共性」へ――「災後」社会の映画/映像論」〔中篇〕(Wasebun on Web)⇒早稲田文学編集室 - WB/早稲田文学

渡邉大輔〈イメージの進行形〉最終回「映像圏の「公共性」へ」(中篇)を公開!
 このテーマで思いだされるのが、2010年の尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件。YouTubeニコニコ動画などが中心となる今の映像システムでは、だだ漏れ的オープンさが優勢になり、時に、オフィシャルである国家がその後を追いかけることになります。
 動画サイトへの違法アップロードを思いだしてもいいでしょう。
 これまでオフィシャルなものが制限していた領域が、漏洩し拡散しているわけです。この流れは不可逆で、これからも広がりつづけるでしょう。そこで新たに、考える枠組みが必要なのです。
 他方、やはり国家の枠を超えたグローバル資本主義は、社会の流動性を増し、ワーキングプアと呼ばれるような、「声なき人びと」を多く生み出してきました。それが少しずつ問題にされるようになってきて、たとえば、前篇で扱った富田克也監督『サウダーヂ』はそこに踏みいる作品でした。
 とはいえ、この状況はさらに広まるばかり…。

 果たして、これからの公共性はどうなるのか?
 前篇で取り上げたVPF問題にもはっきりと通じるこの問題に、単純な左翼的対抗軸とはまた違った、文化論的視角が、いま、求められているといえるでしょう。
 この中篇では、松江哲明監督『童貞。をプロデュース』を重要な作品として見ていきます。
 本来の意味を超えて、社会的な意味をもちはじめた童貞ですが、そこにどう関わるのか? 童貞から見る公共性、必見です。
※後篇は、先日の告知より遅れ、2月に更新する予定です。

「映像圏の「公共性」へ」(中篇)・(PDF 2012.1.23 UP)
「映像圏の「公共性」へ」(前篇)・(PDF 2011.12.21 UP)
渡邉大輔(わたなべ・だいすけ) 映画研究者・批評家。日本大学芸術学部非常勤講師。専攻は日本映画史。現代映画、ネットの動画もふくめた映像文化論を中心に、ミステリから哲学、情報社会論まで幅広く論じる。

しかし、なんだかもう、「中篇」なんて名ばかりで、分量的にも内容的にも、もはや新たな回といってもいいくらいの原稿になっていますが。。今回はゲラ段階でもかなり加筆・改稿したので、またまた読者の方にはある種の負担を強いてしまうような分量ではありますが、とにかくマジで渾身の原稿であることは間違いないです。自分でいうのもなんですが、なんだかすごいことになってきました。今回は、前回(前篇)のVPF問題から派生した映像圏の公共性の問題系を発展させつつ、映画史のイメージの系譜を縦横に参照しながら「映像圏的公共性」なるものの輪郭をざっくりと描き、次により包括的な「対抗的公共圏」という現代フランクフルト学派の概念を提示するところまで。
今回、登場するキーワードは、震災映像、フレデリック・ワイズマン(『チチカット・フォーリーズ』『福祉』…)、ハンナ・アーレントハーバーマス、ナンシー・フレイザー土本典昭(『パルチザン前史』『不知火海』……)、小川紳介(『三里塚』連作)、王兵松江哲明(『童貞。をプロデュース』『トーキョードリフター』……)などなど。
今回はわりと僕が一貫してこだわっている作家、松江哲明監督のかなり紙幅を割いた作家論が論の後半にあります。
しかし、土本・小川やアーレントハーバーマス、果ては「対抗的公共圏」なんて概念を参照しているせいか、今回はいわゆる「左翼臭」が妙にキツい原稿になってしまいました。僕としては、むしろ一般的な通念として上記のキーワードにまとわりつく左翼臭を映像圏の文脈から相乗的に脱色したいと考えていたのですが、ちょっとそうした僕の意図とは微妙に異なる肌合いの論文になってしまったようです。ここらへんは、次回のほんとうの最終回でなんとかまとまりをつけたいとは思っているのですが、どうなるか……。
まあ、「公共性」とかいっちゃってる時点で左翼臭は仕方ないのかもしれませんが。
以下にまた内容に関係する動画を。